No.389 下北半島周遊ハイキング旅行 (2019.10.21~24)

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DSC02543km.JPG日時;2019年10月21日(月)~24日(木)3泊4日
集合;東京駅新幹線乗り場 7時20分
参加者;8人(男3人、女5人)勝巳(リーダー、記録)・才美・憲治(サブリーダー、運転)・亮子・和子・邦子・美奈子・三貴也(写真)。

コース;

1日目;
東京駅発7時36分(はやぶさ3号)――八戸着10時31分――レンタカー手読・昼食11時30分発――おがわら湖道の駅休憩――むつ湾展望台着13時20分――恐山宿坊・吉祥閣着15時30分――散策――食事17時30分~。

2日目;
朝のお勤め6時30分~――恐山宿坊・吉祥閣発8時30分――川内川渓谷着9時40分――川内川渓谷発10時20分――仏ヶ浦着12時30分――遊覧船――本州北端の地着15時――大間町営海峡保養センター着16時30分――食事18時00分~。

3日目;
朝食7時00分~――大間町営海峡保養センター発8時00分――奥薬研温泉着9時40分――尻屋崎三崎着12時50分――ひば埋没林着14時20分――民宿・うえの着16時30分――食事18時00分~。

4日目;
朝食6時30分~――民宿・うえの発8時00分――白糠灯台着8時30分――六ケ所原燃PRセンター着9時20分――六ケ所原燃PRセンター発12時40分――六ケ所考古学博物館見学――八戸駅前昼食・散策――八戸駅集合16時00分――八戸駅発16時16分(はやぶさ30号――上野駅18時頃解散(少しダイヤ乱れていました)。

DSC02588km.JPG恐山(おそれやま)
これから行く恐山は小さな湖の周りに寺院が点在するどこにもある風景で、日本三大霊場を実感するには釜臥山展望台から俯瞰するだけでは遠すぎる。
恐山と言う名の山は無く境内内外の周辺一帯をさす。噴火口の中に小さな宇曾利湖畔にある寺。本尊は「地蔵菩薩」。成仏できるのにあえてせずこの地上にとどまって迷える人を救済するとされる。特にその姿からか子供をあわれみ救済する仏である。ここの地蔵は曹洞宗の僧侶と同じ僧衣を着ている。その裾がボロボロなのは地蔵は苦しむ魂を救いに真夜中に恐山を歩き、亡き人が裾にしがみつき救いを求めるからだと言う切ない言いDSC02576km.JPG伝えがある。硫黄ガスが常に噴出し、電気製品も照明も、パソコンも半年、エアコンも自動販売機もすぐに硫黄ガスで使えなくなる特別な地帯。人間も運悪く濃いガスに合えば死んでしまう。宿坊の温泉ですら洗髪洗顔をしないこと。すればたちまち硫黄害が眼球を犯す。この環境の中にあるのが恐山の本当の正体。古い本堂には多くの納められた衣裳、遺影があり中でも花嫁人形にハッとさせられる。若くして死んだ子にせめてあの世で楽しい人生をと願った親兄弟の供養だろう。硫黄ガスの流にあるカラカラとなる風車は亡くした幼子への悲しみの声だ。硫黄ガスの煙がたなびく夕暮れの湖畔。いないはずの烏が一羽だけ真っ白な砂浜に泊まって動かない。何か伝えたいのか。
DSC0258km.JPG宿坊「吉祥閣」は新しく広々と清潔。料理は精進料理。修行の場らしく食事の初めには僧侶による読経があり一斉に食事を始め、「願わくはこの功徳をもってあまねく一切に及ぼし我らと衆生と皆ともに仏道を成ぜんことを」で一斉に終わる。まさに修行である。その証拠に食事時は寝間着禁止。時間は朝6時30分。夕方5時30分。この5分前に全員集合する。朝のお勤めは6時30分から本堂で講話も含めて90分。消灯10時。酒は禁止。
亡き人と出会える恐山は生きると言う事を考えさせる。同じ経験をした、利尻島の海岸で人知れぬ洞窟に古い地蔵や人形が祀られ、黄泉への入り口があった。絶海の岩場にひっそりと祀る死者への想いはどんなものだろう。轟々たる日本海の波と風、地吹雪と、雷鳴の世界だ。黄泉への入り口に立ちすくみ死者への追憶に泣く無声慟哭を聴いた。

DSC02594km.JPG仏ケ浦への道
道は、陸奥湊を過ぎ下北半島のど真ん中、川内に至る。緑の部分がほとんどなくなっていわゆる紅葉したと言うらしいが、美しさから言えば、紅葉が始まって間もない緑が残っている今がいい。渓谷の淵に紅葉と、残っている広葉樹の緑が作り出す色彩は驚愕する。人間などいまだに雑木林さえ造れない。ハゼの木や、楠、ブナの木、の混合林が作り出す緑を背景にした自然は限りなく美しく、この姿は、人工的な完全無欠より奥行きがある。
川内川渓谷遊歩道は短いがしっとりした秋に満ちている。先日来の雨に濡れた落ち葉DSC02598km.JPGを踏んで歩けば落ち葉匂い立つ森、下北半島一の水量を誇る渓流が豊かに音高く流れるのは、踏み込めない原生林のお蔭だろう。渡る予定の遊歩道「あすなろ吊り橋」はとっくの昔に通行止めなのにパンフレットには堂々と書かれ東北らしいおおらかな自然のままだった。
川内湖を経由して牛滝の向う。行けども行けども曲がりくねった道の左右に人家は無い。
山は低いが深い。この道をリュックで歩いた時廃村に出会った。その草生す石碑に「満州から引き揚げやっとの思いでここへ開拓に入った。なのにうち続く冷害に負け、それぞれの道に今別れる」という石碑を見つけ出した時には深く自己嫌悪に陥ったがその廃村を今回は車で通りぬける。翻弄されたあの開拓者達のその後を誰も知ろうともしない。
DSC02614km.JPG牛滝は僅か100人の絶壁の弧村。もし雨が降ればこの村はずれから仏浦に山道を行く覚悟だったが幸い雨はなく佐井へ向かう。佐井はかって北前舟が寄港し栄えた。300年も続いた医者の家が現存すると言えば想像がつく。今、通る人とて少ない。その村の医師、三上剛太郎は日露戦争で傷病兵を守るため手縫いの赤十字旗を掲げ、取り囲んでいたロシアコッサク兵から傷病兵を守った。生家にある赤十字の旗はその精神を称えている。
佐井からの仏ケ浦への観光船はモダンな名前の「アルサス」(津軽海峡文化館)前から出る。今日は珍しく天気が良く風もない。仏DSC02624km.JPGケ浦は、「飢餓海峡」に登場し名が知れた。白亜の奇岩の屹立する陸奥湾に面する海岸であり、信仰の地域で、下北の代表的な風景。観光客は船で上陸し、付近を逍遥し、なぜか皆無口になって帰る。風光明媚なのに仏ケ浦とはそういうところだ。
佐井のはずれで縫道石山に至る道を右に北海道が見え隠れする大間崎に向かう。観光地ではあるのに本州最果。400Kgのまぐろの銅像がある。よっぽど嬉しかったのだろう。一匹でひと財産を造ったのだから。もちろん海にマグロなど見えない。食堂は半分閉まっている。まぐろ丼4000円。そんな金は払えないと言うのは大間マグロに対し礼を失するか。岬は足摺も、室戸、能登、竜飛、国東、佐多岬も同じ風景に見える。行き止まりが持つ哀愁は只茫々の海鳴りに立ちつくす。寂れた土産物屋では段ボール箱で干物しか売ってない。風が出てきた。背を丸め皆、海鳴りに海を眺める。

image (010)km.jpg大間から奥薬研温泉へ
大間温泉海峡保養センターと言う玄関だけ高級リゾート風が今日の宿。パンフレットのこの写真が曲者。行ってみなければ宿の当たり外れはわからないのが楽しみだが。部屋名は魚の名前で結構ややっこしい。奮発して夕食に大間のマグロにありつく。都会で食べることがあるがなぜか全く違う。流石に窓は重い二重ガラス。ここの冬は厳しいに違いない。
大間を出て津軽海峡を左に風間浦村、下風呂温泉を過ぎ大畑から開湯400年の奥薬研原温泉を目指す。恐山のほぼ真北に位置する行き止まりの山中にある。もっとも「あm.JPGすなろライン」と言う佐井まで縦断する未舗装道があるが、かなり危険と案内書に記されているからやはり行き止まり相当。かつて牛滝から此の温泉まで歩いてきて、優美な旅館の駐車場にテントを張ったが、その旅館は今や窓ガラスは割れロープが張られていた。大畑川は魚跳ねる魚影濃き大きな渓流。紅葉は川内川渓谷よりさらに進んでいる。揺れる「かっぱ橋」吊橋を渡り「薬研渓流散策コース」に入る。ここまで来ると渓流以外の音は無い深山。弾力の枯れ葉道は秋の匂いに満ちてヒバやぶなの実験林の林野庁独特な専門的看板が出てくる。歩道には林用軌道の線路が残っている。道は途中崖にぶつかり絶壁が立ちはだかったところで突然トンネルに出合う。あわてて懐中電灯。暗さに馴れない眼で恐る恐る進む。このトンネルは完DSC02630km.JPG全「手掘り」トンネル。つるはしと、スコップだけで全て人力で掘ったもの。今掘ったばかりのような壁も、天井もごつごつの自然そのままの岩。こんな僻地にどんな人がどんな苦労をして掘ったのか。此の地に来るのも当時の事だDSC02635km.JPGから延々と歩いてきたのだろう。冬もはさんで工事期間は長期に渡ったはず。大河改修や、青の洞門の記録はあるが、このような名も知れず記録すらない工事の苦労は知ってみたい。トンネルの先で大畑川を渡る橋を越えようとしたが通行困難。鉄製の床はさびてボロボロに穴が開いている。もとよりそんなことは散策コースのパンフレットに記載はないが、これは渡れなかった川内渓谷「あすなろ吊り橋」に同じ。渓流を渡る命がけ行為は止めて安全な乙女橋に戻り駐車場に向かう。先行したTさんが車を回してくれたおかげで残り全員が楽をした。今回もTさんにはお世話になってしまった。一人で運転の他にだから更に申し訳ない。

DSC02643km.JPG尻屋崎岬
大畑に戻り未舗装もあると言う表示の村道を避け、立派な舗装道を津軽海峡を左にして野牛川を経由、尻屋崎に向かう。途中、尻屋近くで人家もない海岸に突然巨大工場が出現。
DSC02652km.JPG三菱マテリアルの工場らしいが秘密めいた不思議な風景。地図に記載はない。津軽海峡を前に桑畑山に続く山麓を背に巨大な機械が縦横に設置され、何やら謎めく。金でも密かに採掘しているのか。ともかく人跡まれな僻地にあるのはそれなりの理由があるに違いない。
岬は快晴。此の旅で初めて海の色が濃く美しいと思った。本州最北東端の白いレンガ作りの灯台に登る。一面の海、陸地に樹木無く草原。太平洋からの億年を蔵した波頭。岩礁は黒く波頭白く襲い来る。天才的無名歌人、鳴海要吉が詠んだ「諦めの旅ではあった、磯の先の白い灯台に日がさしていた」そのままの風景があった。寒立馬がのどかに草を食む。この風景を心にしまい込むはるばる来た旅人は多いだろう。

原子力関係の周辺

DSC02657km.JPGいよいよ、南に向かう。左に太平洋、右は古い時代からの牧場らしい。軍馬をもっぱら供出した地。時代に取り残され忘れられたところに原子力関係の話が持ち上がった。三沢基地を始め、防衛庁の施設も多い。何もないこの地で他に手段は無いのだろう。東通村は原発関連施設が多い。その途中で猿が森の下北砂丘に寄りたかったが不思議にその標識すらが見つからない。たぶん、此の原子力関係施設に隠れたのだろう。高い鉄条網の塀は頑強に作られ警備員が目に付く。泊集落の民宿は、ほとんどその工事関係者か長期の逗留らしく、黙々と食事をしてビールも飲まず黙々と食堂を出る若い屈強な人達。民宿に寝間着はない、トイレ、洗面所は共同。当初5500円と言ったそれなりの理由が分かった。何とか値段を上げて多少良い食事にしてもう値上げの交渉をしたのは貴重な経験。考えてみれば、此のあたりの民宿は全てこの人たちの通年の下宿、寮みたいなもの。だから観光気分の常識は非常識。寝間着がDSC02664km.JPGないのかと聞いたら、宿の人は怪訝な顔をしていた。此の地ではこれが常識。多少はこの状況を予測し、出来るだけ原発関連施設のそばの宿泊は避けたのだが。ヒバの埋没林は、予想外。30分も森を歩き廻りまだ到着していないのかと疑ったがそうではなくこれが神秘の埋没林だったようだ。当たり前だ。1000年前の砂の中にヒバの木が埋もれたという事なら、派手な見世物などがあるはずがない。パンフレトをそのまま信じてしまう悲しさ。宿は港の近く。早朝散歩すると大地震後に造られた緊急避難用の20m程度の階段に出くわした。その階段に行く道がない。もちろん標識もなく、人の家の庭を通るらしい。その上、木々が鬱蒼と倒れ、草が一面に階段を隠している。これでは住民も旅行者も緊急時に登れない。宿で聞いたらみんな問題視しているのに誰もやらないのだという。子供が通学に使っていた頃は階段を使ったが卒業したら誰も階段を使わないうちに今の状態になったらしい。「箱は作るが誰も維持に関心がない」の典型。消防自動車がスピーカーで「台風の用心を」とがなり立てて行った。あの悲劇から10数年、しかもここは大津波を受けたほぼ同じ地域だと言うのに。

六ヶ所村の事

DSC02668km.JPG宿を早朝出発。白糖の「物見崎」に立ち寄る。新しいバイパスを通って行くと不思議なことにこの岬に行けない。旧道から行けるらしいが道は人家が連担しわかりにくく、さりとて聴くに人はいない。適当に神社への急な階段を登ったが、尾根が違って燈台への道に遠く離れている。結局ここでもTさんに車を回してもらい改めて行った。その早朝の岬は北山崎に似て絶景。苦労しただけのことはある。くびれた湾の波のかなたに遥かに防衛省下北試験場らしき建物が薄い波煙越しに見え、地球が丸いことがはっきりわかる。静かだ。途中から舗装されてなく狭い崖沿いの道である。観光地でも東北は心して行かねばならない。
六ヶ所村原燃PRセンターは実に立派で、更にVIP用には特別な施設さえある。どこから金が出るか知らないがどう見ても多額の経費が掛かっている。見学は申請を4週間前からしなければならない。説明は、いきなり放射能は天然にも、土地、食物にも宇宙にもあり危険なものではない従ってここも安全から始まる。放射能測定器が各地に設置されているから大丈夫と言うのは地震計があるから地震被害は大丈夫と言うようなもの。すべてが宣伝。電力発電風車があるが宣伝くさい。使用後の燃料廃棄物は300m地下だから安全と言うが本当か。説明を聞きながら疑問がわいてくるが質問は控えた方が良い雰囲気。環境科学技術研究所、国際核融合エネルギー研究センター青森県量子科学センター。原子燃料サイクル施設、環境研先端分子センター。この他、風力発電関係や石油備蓄センターなども加えればこの村は全てこの種関係機関、その付属機関に占領されている。
DSC02676km.JPG昨日10月27日、朝日新聞「歌壇」の中で「原発がなければ仕事がないというそういう土地に原発はある」という短歌を選者2人が選び誉めている。そんなことを今更知ったかというレベルはともかく、事実ではある。原子力の関係施設は下北半島六ヶ所村に多く、どう見てもその危険は偏りすぎている。その名前を見るだけで恐怖を覚える程ひしめいている。原発を推進するならせめて安全対策をと、いまだに避難生活を強いられている方の現状からも願わずにいられない。もんじゅの高速増殖炉が廃炉になりその代わりと言っているが見通しは無い。1兆円を超える費用をすでに使っている。始皇帝が不老長寿を保つ仙薬を探させるために徐福に騙され膨大な金をつぎ込んだ話の現代版か。もとよりこのへんの事情は知る由もないが、各国がすでに放棄していることを知っていてしがみついているとすれば原発を輸出している企業はともかく、よっぽどの理由があるのだろう。それにしてもなんでこんなにこの地はこんなになったのか。もちろん、現地誘致もあるだろうが、なんだか開拓地や、牧草地の足元を見透かして利用しているように思えてならない。
DSC02678km.JPG此の地は自然の豊かなのどかな村や漁村だった。鎌倉時代から良馬の産地であったし、六ヶ所村周辺は縄文時代の遺跡に満ちもっとも古い土器もここから発見された。六ヶ所村の考古学博物館によれば、まだ未発掘の遺跡もかなりあるらしい。かつて国立博物館の正面入り口に展示された土器もここのものだった。縄文時代の遺跡は世界遺産級のものの発掘がされている。しかしそのほとんどの土地がある公社の一筆の所有の為、今後原子力の関係で急遽建設が必要な時に、建設が制限されると困るため、世界遺産指定に観光なら何でも提案する国が提案しないという。郷土の誇りを見も知らない企業の僅かな見返りの前に投げ出しているのか、それとも関西電力のように我々の知らない闇の世界で一部の人達の途方もない利権の為かと疑いたくなる。
それにしても六ヶ所村は不思議なところだ。村民は全く見当たらない。公共施設は道路に至るまで超一級。やたらに恐ろしげな名前の近代的な建物が多い。こんなに集中しているところは日本中に無いのではないか。道路は歩道付きで広く街灯もトンネルも明るく、ほとんどの集落を避けてバイパスが完成している。三沢はアメリカの田舎町そのもの。近くに航空科学博物館なるものがあるが軍事用の航空機が平和憲法など歯牙にもかけないで平然と陳列されている。商店の英語看板も、1万人を超える外国軍駐屯も沖縄に同じ。おこぼれでそこに生活すること以外に方法の無い所とされている意味でも。
下北の大部分と違い、六ヶ所村が発展しているように見えるのはその方面の人達に利用価値がある限りにおいてのことだ。

最後に
此の旅で下北の小学校の教員に赴任していた薄幸の詩人「鳴海要吉」を知った。
歌集は手に入らない。知る人ぞ知る歌集なのだろう。佐井や、大間や、尻屋岬の旅の仕上げとして、何とかして手に入れたいと毎日思っている。この風景はこの詩人にしか歌えないから。


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