夜半の雨で空気が澄み渡り、空が一際青さを増している様に思える。そこにたわわに生っている柿の実の橙色が映える。土地の方に柿を分けて頂く。 古民家山十邸に入り見学する。山十邸は、明治初期の豪農の住居で、山十(やまじゅう)は屋号で、熊坂半兵衛の邸宅であった。半原の宮大工矢内家の三兄弟により建てられた。その後、思想家大川周明の手に渡ったりしたが、現在は愛川町で管理している。瓦葺、入り母屋造りで、薬医門を中心にして黒板塀を廻らした広い敷地内には母屋、土蔵、井戸等がある。又、玄関左手には内塀で仕切られた枯山水の庭園がある。土蔵前には、棗の実が生り、熟したものが下に落ちている。柘榴も赤い実を青空に曝している。
山十邸前の「まちなみ百選」の街道を龍福寺へ行く。途中、台地から眺める里山の風景は郷愁をそそる。総檜造りの竜宮城を思わせる山門を持つ龍福寺へ入る。曹洞宗で、本尊は釈迦三尊である。境内の小池の周囲に七福神が配置されている。山門を額縁にして見る里山の風景は一服の絵である。
近藤坂を下る途中に中津層の露頭が見られる。今から200万―300万年前の砂岩、泥岩質で中津台地の基盤をなすものである。坂の下に点在する民家の間を通り中津川堤防にでる。九月に下見に来た時は、鮎釣りをする人々の姿があったが、今は、静かに流れる川面には人影はない。八菅橋を渡り、光勝寺の総門跡を右手に見ながら、八菅神社の大鳥居を目指し山道を上って行く。
八菅神社の大鳥居を潜り、数段階段を上った所で、300数段ある急な階段が目前に迫ってくる。その左手には女坂があり、二手に分かれ本殿まで登って行った。八菅山縁起によると日本武尊が東征のおり、この山を望み見て山容が蛇の横たわるに似ている所から「蛇形山」と名付けたという。その後、703年修験道の開祖役の小角が入峰し、修法を行った。その際、忽然として地中に八本の菅が生えたところから、八菅山の名が起こり709年には行基が入山し、御神体及び本地仏を彫刻し、伽藍を建立して勅願所にしたといわれている。本殿にお参りし、その裏手からハ菅山展望台に向かう。
途中、アスレチックのある「いこいの森」を通り、八菅山展望台に到る。展望台に上ると、眼下に愛川工業団地が望め、その先には、相模原、町田、海老名が見える。更に、三浦半島、房総半島、東京は新宿高層ビル群、東京スカイツリー、そして勿論、横浜ランドマークタワーも見える。展望台近くの東屋やその周辺の芝生で昼食を摂る。 展望台を後にし、元来た道をもどる途中の右手の「どんぐりの小径」を下り、「やなみ峠」に出る。正面の小さな橋を渡り、鳶尾山ハイキングコースに入る。
広くてしっかりした舗装道を緩やかに登って行くと分岐に出る。そこを左手の山道に進むと尾根部分に出る。そこには、沢山の桜の木が植林されている。「きずなの整備事業」で、桜の木10000本が植樹された。花の季節になるとどの様な色彩の世界が広がるのでしょう。そのまま尾根道を進み山頂に到着する。 山頂の周囲は、樹木に覆われていて展望は今一つだが、樹間からは下界の街並みが見える。ベンチも置かれていてちょっとした広場になっている。鳶尾山(235m)砂利採取の為、山頂にあった一等三角点は、一旦、麓の小学校へ移設されたが約30年程して、2004年に元の地点に再移設された。
先程、登って来た道から見て、右手の緩やかな道を進む。夜半の雨で滑りやすくなっている。次第に、急な道に変わり、更に、滑り易くなってきた。小ピークを過ぎ展望台に到る。 展望台の下には、日清戦没記念碑がある。展望台の東側からは、東京タワー、スカイツリー、東京都庁、横浜ランドマークタワー、南側からは江ノ島灯台、厚木アクストメインタワー、伊豆半島、伊豆大島、東側には湘南平、大山、丹沢山塊が見える。 先に進むとすぐに分岐がありる。金毘羅宮跡へと登る道と、巻き道と二手に分かれるが、金毘羅宮跡の道を進む。そこを登ると上には広くて平らな場所があり、小屋が一つ建っている。その先の石段を下り、木製の鳥居をくぐると巻き道と合流する。その近くにある道標に書かれている天覧台公園方面へと歩を進める。
それ程傾斜のない尾根道を進むと、分岐になるが、そのまま雑木林の中を行き,それから植林体と雑木林の間に続く広い尾根道を行くと鳥居が現れる。先程辿った金毘羅宮の名残りなのでしょうか。鳥居を潜ると直ぐに急な石段が始まる。暫く石段を下りていくと左手に鳶尾団地が現れる。その鳶尾団地を横切る様に歩くと国道に出る。鳶尾団地バス停がある。厚木バスセンター行きに乗り、本厚木駅で下車する。途中、アクシデントもあったが、良い方向で解決し、無事解散した。
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