東北被災地訪問(特例会)6/21―6/23 

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[総括記録:勝巳]

touhoku-1.jpg書くことが、書かなければいけないことが沢山あるのに、書けない。通常の記録は当日に作成できるのに今回は全く手がつかない。何を書けばこの惨状が伝わるのか、通りすがりの人間は2万人の死者の慟哭に耐える記録を書けない。

touhoku-2.jpg夏祭りに子供達の声は陽炎の村中をめぐる。早朝の祭囃子に家を飛び出したくなるのをジット我慢する。盆踊りには懐かしい顔が緩やかに舞い父母のいつもと違う顔に戸惑う。小さな海岸沿いの駅に胸のときめきとともに列車から降りる人を待つ。家中で海藻を採る時は鳶も、海猫の鳴き声も聞こえない。いつも村はどこかで人の声がしている。ラジオが鳴り柱時計の音さえ聞こえる。村を歩くのは皆顔見知りだ。その家族だって知っている。この静かな小さな漁村が、時を止めたような生活が、一瞬にして溶解し霧散し文字通り消えさる。何の罪もない人達の平凡な生活を、わだつみの海底から立ち上がるあのどす黒い津波が根こそぎさらっていく。

touhoku-3.jpg津波被害の本質は建物や、道路ではない。人々の命を育んでいた穏やかな生活のすべてを一切の弁明を許さず奪い去ることだ。打ちのめされ、呆然とする術さえも失うことだ。田野畑の工藤さんは津波の状況を説明しながら、必死に涙をこらえている。かって幸せだったこの自分の家跡にたって、津波のことを見知らぬ私達に話している。無くなったおばあさんの顔の雪を手で除くことしかできなかった事をいまだにわびている。この一目で見渡せる漁村で30名近くの犠牲者がいる。

touhoku-4.jpg岩手の長大な海岸沿いには車が曲がるたびに、漁村が現れる。ことごとく家は土台だけしかない。また、違う漁村に出会う。そこも跡かたもない。有名な被災地でこそないが、無数の村があったはずだ。みんな無い。ことごとく無い。無名のままに海にのまれた。「あなた方はいのちを大切にしてほしい」と説明の最後に小声で言った言葉が忘れられない。被災者の鋭敏な感覚は、残酷な社会はやがて全てを風化する事を見抜いているのだ。あの村が昔に帰ることはないかもしれない。今の私は、一緒に涙を流すことしかできない。しかしいつか私は訪れたい。もう一度訪れたい。社会の一員である自分の贖罪として訪れたい。線路も流された田野畑の駅跡に宮澤賢治の石碑が残っていた。海をにらみつけて立っていた。

  • touhoku-5.jpg参加者:7人  勝巳(L記録)、才美、憲治(運転)、貞子、善右衛門(運転)、恵美子、三貴也(L会計)

     

    コース:

  • 6月21日(木):  家出発7時15分―東京発8時56分はやて19号―八戸12時04分着(レンタカー借入出発12時30分)―久慈―北山崎14時―田野畑羅賀海岸(被災状況説明)―田老16時―宮古浄土ヶ浜(サッパ船による青の洞窟周遊)17時―宮古18時着宿泊 休暇村「陸中宮古」0193-62-9911 2部屋8畳復興感謝プラン7000円
  • 6月22日(金):  宮古8時出発―十二神自然観察教育林経由―山田―大槻町―三陸―釜石―大船渡―陸前高田―高田松原―気仙沼着16時宿泊 「気仙沼ホテル観洋」 0226-24-1200 2部屋7人8400円(応援プラン)
  • 6月23日(土):  気仙沼出発午前8時―歌津町―南三陸(往復4時間)―気仙沼帰着11時(レンタカー返し)―JR気仙沼出発12時19分― 一ノ関着13時41分(新幹線乗り換え)   やまびこ60号13時48分発座席指定―東京着16時24分
  • 東北三陸訪問感想

    (憲治)

    東北三陸沖地震津波は、アメリカ9.11事件と比較されるほど世界的に衝撃的な出来事だった。ここ近年には被災地は高齢過疎、三次産業の景気低迷等が問われており、また少子化による後継問題など深刻な課題があった。この度現況を見るに1年4カ月経過していても高度成長を目指していた昭和35年5月のチリ津波被災のときに比べ、国による復興推進、地方自治体の復興経済政策の進捗は不十分に見え、平成津波被害者の救済や復興にはかなりな時間が掛かるだろうと感じられた。まだまだ処理の仕切れていない山積みの瓦礫や整地化されない三陸鉄道沿いの駅前広場や街区、わずかな山間の広場に並び建つ仮設住宅など悲惨な状況を目のあたりにし、自分の生活が通常変化なく過ごしていて居るのが何か申し訳なく思える。世界中の皆さんからの累積復興義援金5.6兆円が現在あっても即行有効的利用がまだされてない復興予算案など日本のスロー政治は良識ある国からは笑われる事ばかり。旅中に話をした売店のお姉さんは被災して家族がまだ見つからないと話されてさびしく笑顔をつくっていた。また救助中に遺体の数の多さに涙が止まらなかったと話す駐車場のおじさんがいた。娘婿や甥が被災直後にボランティアに参加して帰宅したときに肉親の安否、被災住宅、知人との別離、死者への哀惜、これからの生活展望など何からなにからまで不安と絶望に接した人々が余りにも多いと泣きじゃくって話していた。まだ私に何か出来ることがまだあると思います。出来るだけ被災者が一刻も早く安心できる生活環境に戻る事を祈ります。

    (貞子)

    大震災から一年と三カ月いまだ避難生活を強いられている被災者を思い何か復興のお役に立てたらと言う思いで、岩手から宮城を訪ねました。車で山間部から海沿いの入江に入る度に、かっては風光明媚な村や町が津波の被害で荒涼たる風景と化していました。現実を目の当たりにしてショツクでした。橋脚が流された田野畑村カルボナード島越駅は駅舎がおしゃれで眼前には海水浴場が広がり構内には宮沢賢治の石碑、更衣室 シャワー室があり夏には子供達で賑わったであろうと思われました。又地元総出で祝った大神宮様のお祭りも平和な人々の営みも一瞬にして23.7mの津波に飲み込まれたのです。語り部の女性も涙ながらにご自身の体験を語られ被災者であるにもかかわらず支援をしてくれた人々に感謝の言葉を述べる謙虚さに涙してしまいました。途中出会った方々も肉親やふるさとを失ったお話をされましたが、皆さん前を向いて生きている姿にもっと応援をしなければと思う。車を進めるにつれ岩手は殆ど瓦礫が片付けられている様に見えたが、宮城に入ると広範囲に渡り瓦礫がまだあり津波の惨状をまざまざと見せつけられました。その中で多くのボランティアが復興に向けて頑張っていました。頭が下がる思いです。私が特に印象的だったのは南三陸の歌津駅です。高台には半壊したホームがひっそりと佇み、そこにあったであろう駅前広場や町は島越と同じ状況でした。被災された人達は、避難所での生活、仮設住宅での日々、さぞかし困難な状況と思います。一日でも普通の暮らしができますようにとお祈りしますと共に政府がもっと真剣に対処するよう強く望みます。わずかな時間でしたが被災地を訪れ現状を見た事は災害をより身近に感じる事が出来ました。今回の教訓、自然を甘く見てはいけないと言う事を後世に語り継いていくのが私達の役目であると思いを強くしました。

    (三貴也)

    東日本大震災から早くも1年3ヶ月が過ぎました。しかし、未だ明るい復興のニュースは聞こえてきません。メディアを通しその悲惨さは見聞きしていますが、被災地の実際を見せていただこうと2泊3日の日程で訪ねました。改めて、犠牲になられた多くの方々には心からご冥福をお祈りいたします。 1日目は八戸から田野畑地区に入り、コンクリート部分のみを残した住宅跡、ほとんどが破壊されている鉄道橋の惨状を目にして津波のエネルギーに驚嘆した。NPO法人の方から当時の状況を説明していただきました。その方は自ら実際に津波にのみ込まれ九死に一生を得た小柄な女性です。生還後、津波に流されている近所のおばあさんと手を繋ぎながら引き上げて助けることが出来なかったショックのため食欲もなく体調を崩し最近まで通院していたとお話していました。涙目で優しい口調での丁寧なお話に引き込まれたひと時でした。また、この地域で倒壊した家屋は津波によるもので地震によって倒壊した家屋は無いとの説明もあり、実際の震度はどのくらいであったのか?将来予想されている大地震に対する警戒が大きく報道されている昨今正確な検証が必要ではないのかと痛感した。移動中の車窓からは、津波の影響が無かったと思われる地域には多くの木造住宅が倒壊しないで残っていました。「万里の長城」と呼ばれた「田老湾岸堤防」が崩壊した田老を訪れ、未だ瓦礫の山が残り、被災の大きさを実感する。 2日目は、宮古から気仙沼まで、3日目は気仙沼と南三陸町間を往復。沿岸の街々の惨状を目に焼き付けながら車移動した。大船渡には、一本松が瓦礫の中頑張っていました。気仙沼には、海岸より900mも流された330tもの大きな船が道路わきに座礁していました。どの街も衝撃的に破壊された街の復旧工事は行われていますが復興工事は始っていない様子です。これからの長い大変な復興工事が待っています。被災された方々のご健闘を願うばかりです。

    (善右衛門)

    未曾有の東日本大震災が1年3ヶ月前に発生、連日テレビ、新聞等で報道された被災地、三陸沖沿岸を北から訪ねる計画、田野畑村では大津波語り部が、集落が津波にのまれたので避難所、仮設住宅で絆や支援に支えられた生活が今でも続いている、もうこんな辛い思いをしないためにあの大津波を語り継ぐと涙ながら語っていた.宮古市田老地区では明治29年、昭和8年、昭和35年の三陸大津波で壊滅的な被害を受けたので大防潮堤を建設したが大津波を防げなかった。山田町では津波が防潮堤を乗り越え、プロパンガスが爆発、火災が発生したが断水で消火活動が出来ず町全体を焼き尽くした。今でも猛火に包まれ灰と化した街の残骸が残っていた。大槌町、大船渡、陸前高田、釜石の沿岸は震災直後のままの光景が広がっている。唐桑半島にある地震体験館を訪問し、明治29年、昭和8年、昭和35年の震度と津波を映像で体験しました。地震体験館の責任者に今回の大震災について体験談を伺ったところ家屋の倒壊はなかったが大津波によって水道、電気、電話、道路が不通となり3日間食糧が途絶えたそうです。アメリカの艦船が十隻海岸に並びヘリコプターで被災地に届けてくれて大変助かった。電気の復旧には1ヶ月、電話は2ヶ月かかった。災害に備えて最低3日分の食糧、水を確保し、携帯ラジオを用意、いつでも避難場所に行けるよう準備しておくことを勧められた。気仙沼には今でも何百トン級の漁船が道路わきに打ち上げられたままである。宿泊ホテルから市内を見渡したところ住宅の明かりは見えなかったが街灯はついていた。南三陸町の防災対策庁舎にはバスで多くの観光客が訪れ、避難を最後まで呼びかけ犠牲になった女性への線香が手向けられてていた。

    (恵美子)

    田野畑村で被災されたボランティアが自分の経験したことを一人でも多くの人に自分の言葉で伝えたいとこの仕事を選び頑張っていました。家も失いご自身も水にのまれ九死に一生を得たこと、自分の目の前で助けてあげられなかったおばあさんのこと、肩を震わせて涙を流しながら説明してくれた姿に胸が熱くなりました。その方の、皆さんの温かいご支援有難うございます,尚一層これからも頑張っていきますと深々と頭を下げる姿に言葉が見つかりませんでした。大船渡から陸前高田へ(高田松原)にたった一本残った松の木に会いに行きました。青いテ―プを根本に巻き付けけなげに立っていました。実際にこの目で見ると何故かえらいな、頑張ってねと祈ってしまいました。リアス海岸特有の入り組んだ海岸線なので次々と入江に渦を巻きながら津波が押し寄せて町も村も波に?まれて無残な姿になっていました。その印象が強く残ったまま津波体験館に行ったのでそこで見た映像が現実の景色と重なり臨場感一杯で怖さがましました。3日目の南三陸町では見渡す限りの跡地の中で骨組みだけ残った防災対策庁舎にお線香が煙り、花が飾られ手を合わせる人達の風景にただただ立ち尽くすだけでした、被災地を訪ねる旅は有意義な体験でした。

    (才美)

    想定外、経験則を超えた現象、思い出したくない悔しい悲しい出来事、そして人智で制御可能であったはずの原発神話。東北の地の災害の全容はメディアでは掬いきれない何かがあるに違いないという思いで今回の計画に参加した。現地に立ち目にした光景は、底知れぬ強大な自然の力、そのことを忘れていた人間の奢り、弱さであった。リアス式海岸の美しく穏やかであったであろう数多の浦浦、そこでの集落の人々の平和な日々、祭りや出船入船で賑わう人々のさんざめき、そんな諸々が一瞬に失われ、残っているのは瓦礫の山、家々の礎石、鉄筋コンクリートの鉄骨、人家跡にまで流されている大型船、破壊されうねる巨大な防波堤、そして沈黙。それでも夏草は緑に茂り、裏山ではほととぎすが高らかに囀っていた。八戸から田の畑村に入り語り部との出会いがあった。痩身の女性には背負いきれないほどの重い経験を語る。望郷とともに生命の尊さ、再生へ踏み出す一歩で締めくくられる語りに、鎮魂と勇気、強さを受け取ることが出来た。私には到底分かち合える力はないが、我が身の座標軸を今一度考える機会を得た旅であった。

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