(勝巳)
出発まで
度重なる打合せ、宿泊先の予約、HIS経由の航空券、レンタカーの手配、海外旅行保険、渡航認証取得等にかなりの時間と労力を要した。
アメリカとはいえ、今回の様な手作り海外旅行は緊張する。10日間、しかも僻地ともいえる南東部のコロラド高原を中心にした自動車旅行。行き当たりバッタリの精神だけではこの年では心もとない。出来るだけ気ままに、しかも安全に、快適に、美しい所や、珍しい所を安く、少しでも多く見て回ろうと矛盾して、欲張った考えだったが終わってみればほぼ目的は達成した。
]]>ともかくアメリカは変化に富んでいる。僅かな期間では、象の足を触って全体を想像するにすぎないが、それでも触っただけのことはある。奇妙としか言えない風景が次々に展開し、圧倒される。なんでこんな風景があるのだろうとあきれる。この全てを伝えることなど不可能だ。案内書など街にあふれているからぜひご覧いただきたい。したがって観光案内部分は市販のガイドブックに任せて、気の向くままの記録とする。
それにしても事前準備を含め吉生さんの活躍が無ければこの旅行は成立しなかっただろう。
この旅行で見当たらなかったもの。
黒人。横断歩道橋、自動販売機、ホームレス、ヒッチハイカー、路上の故障車、治安の悪さ。野生動物。金持ち。あくどい土産屋。
改めて驚いたこと
木製電柱が延々。発電の風車の群れ、モーテルの安さ、清潔さ。寒さと暑さの気温。直線で広い道路。生活費の安さ。先住民の貧しい集落、大自然の広大な風景、山火事。樹木類の単純さ。貨物列車の長さ。墓の少なさ、残雪の道路、巨大スーパーに客が居ないのに成り立っていること、など
]]>(5月10日)火 晴れ、曇り
(記録担当 勝巳)
第一日(5月10日)火 晴れ、曇り
レンタカーチェックアウト11時30分――LA出発12時――ユマ着20時ごろ
蒸し暑い成田空港は閑散として照明も薄暗く、ひと昔前の共産圏の空港のようである。巨大地震の影響は明らか。いつもとまるで違う風景である。言われている程出入国はうるさくなかった。ロサンゼルス空港の長い通路の移動は毎度ながらうんざりする。レンタカーの手続きは実に見事。さすがレンタカー大国である。車も大きさも十分だし、新車並み。この旅行中、車には満足。いわれのないアメリカ車の中傷誹謗は日本の自動車メーカーの陰謀かと思うほどだ。
町を出ると待ってましたとばかりの砂漠。そんな中で街路に花咲き、緑陰の街並みが続き、電柱一本ないパームスプリングスは見事な街といえる。その近郊の風力発電の風景は壮大を越えて不気味。経営上問題を起こしたエンロン社の大発電地帯で砂漠の見はるかすまで全て風力発電である。初めてここを見学に来た時も恐怖の様な不思議な感じを受けた。砂漠の静寂の中で風車のカラカラという音が耳を離れなかった。やがて巨大な人口の水路に至る。やはりここは砂漠なのだ。この人口を維持する血のにじむ努力を見たようだ。
スーパーに立ち寄る。この大きさはどうだ。誰が、どこからこの砂漠の中を買いにくるのか。それにしても駐車場が異常に大きい。うっかりしていると自分の車に帰れないことは間違いない。大きなクリスマス用の一抱えもある不思議なおもちゃを買う。なんでも中にキャンデーを入れてバットで割るのだそうだ。今年のクリスマスはさぞかし子供たちが喜び、これからの10日間持ち歩く苦労が実ることだろう。
途中、急に貧しい風景に出会う。数台の使い古したトレラーハウスが集合し、周辺はごみに満ちている。かってアメリカでは移動式の住宅に住んでいると知り憧れた事を苦く思い出す。この辺でトイレを借りるため店員に聴くのもスペイン語の方が通じるらしい。
見るからに貧しそうな年寄りがいきなりレストランに入ってきて、コーヒー用のミルクを店員や私の存在など無視して両手一杯持って行ってしまった。プアーホワイトの現実を目のあたりにする光景だ。
どこのモーテルも広く清潔で快適、しかも安い。この4階の部屋は、やけに換気扇の音が大きく、風呂タブの水が流れないことさえも、アメリカらしい大雑把な点がむしろほほえましい。
近くのショッピングモールでハワイアンの夕食、日本より30%は確実に安い。1000円出せばまともな夕食だ。でもファストフードのためか、慣れていないためかおいしいとは言えない。アメリカに料理らしい料理はない。ましてや、これから先の砂漠地帯では当然である。時差で眠い。アルコールは今日はなんとなく無し。無事旅行のスタートを切る。天気は申し分ない。ここユマは「荒野の決闘」に出てくる西部劇の無法者の街だった。
(5月11日)水 晴れ
ユマのホテル発7時30分 暑い。麦秋の緑の牧場を過ぎると、いよいよ本場のアリゾナの砂漠地帯。サボテンは砂漠に行けばどこにでもあるとは大いなる誤解。むしろ珍しいものだ。荒涼とした風景に人型のサボテンはなんだかいい人ににこやかに迎えられたように思える。ここはメキシコ国境に近くカッコイイ制服の国境警備隊に出会う。横に走る線路に貨物車が通り118両連結まで数えたがもっとあったらしい。ほとんどが、四角に梱包した牧草と、大きな牛を輸送中で、鉄道が昔のカーボーイの仕事をしているようだ。
]]>通り過ぎた西部劇で有名なツーソンの近くで、サボテンのサガロ国立公園に入る。静かで観光客も見当たらない。未舗装の埃だらけの道をゆっくり車で回るがさすがに多くののハシラサボテン、サワロサボテンがある。とても親しみやすいのだ。知り合いのようにすら見える。消えていった、先住民の霊が作り上げた形のように見える。やっぱりサボテンは珍しいものだから、わざわざ、サボテンの公園があるのだろう。ここアリゾナ南の気温の高いソノラ砂漠にしかないようだ。ビジターセンターの売店はレンジャーのTシャツしかないようなかわいい店だ。 それにしても暑い。さすがに砂漠。公園を出てから、どこまで行っても変わらない風景が続く。まっすぐな広い道。両脇の砂漠。僅かな枯れ草、遠い地平線の岩山。昼食はガソリンスタンド併設の店で、御当地ルールが分からず注文に手間取る。野菜サラダやチキンの種類が多い。
遠く正面に山が見えだした。今日の宿はあの山のふもとである。ホテルわきのアメリカンレストランでやっと冷たいビールと食事にありつく。そこはラスクルーセスだ。メキシコの町の様な名前である。
(5月12日)木 晴れ
ラスクルーセスのホテル発7時30分。晴れ。70号線で北のコロラド高原方面に向かう。ここから先はロッキー山脈の最南端の砂漠地帯で、この広さは遥か紫の山裾まで続き広大不毛の世界である。軍事基地や、ミサイル射撃場や、広島、長崎投下原爆の実験場でもある。軍事基地は日本のつもりで、入口にゲートがあり、金網越しに基地の建物が見えると思っていたら大違い。走れども走れどもどこにも基地の建物など見えない。基地であるとの標識が思い出したように道端にあるが、立ち入り禁止を示す鉄条網以外に何もない。途中、検問に出会った。親切そうな軍人らしき青年が丁寧な対応をしてくれた。この付近はテロ対策や、軍事機密を守るため厳しい監視と検問があると物の本に書いてあったので、緊張して身構えていたのに拍子抜けした。この6人はどう見てもスパイではないとすぐに見破られた。
]]>ラスクルーセスから70号を北に1時間程走るとホワイトサンズ国立公園に着く。ホワイトサンズ国立公園は全て白の砂丘の不思議な世界だ。どこを見ても、石膏の白。地球の不思議が目前にあるのが何とも扱いに困る。1時間程度熱砂の日差しの中公園を歩いたが、もし、僅かな道標を見失ったら、たぶん帰ることは出来ない白だけの世界である。雪山のその白とは明らかに違う。ここの純白は、荒涼とした砂漠の激しい日光の下で漂白された極端な色である。音もない。 何という光景だろう。こんなところにもヤッカという50cm位の植物が生えている。砂に覆われると茎を垂直に伸ばして砂の上に葉を出して生きている。
この地のトウラロサ盆地に川はない。そのため、岩石内の石膏は溶けて低部セルロ湖に蓄積されそこで結晶化されたものが西卓越風に運ばれて遠くホワイトサンズに集まる。気の遠くなるような時間の作りだす奇跡だ。この公園は、ミサイル射撃場に囲まれていて、実験中は閉鎖されるという怖い所でもある。面白いことに2月1日から5月31日までは公園内での飲酒が禁止されている。こんなところで酒を飲む人もいないだろうが、それにしてもなんでこの期間が禁酒なのか聞くのを忘れた。
70号から地方道54号を経てサンタフェに至る道は、国道25号線でアルバガーキーを経る一般の道と異なり、これぞアメリカの砂漠地帯と云うこの旅行本来の目的に沿うものだ。海抜2000m近い峠を越え、遥かに雪山を見て、全くの原野をただひた走る。気温も快適。昼食は、明らかに先住民集落の薄汚い食堂。他に町もないし、店など、ここを見逃したらない。室内は薄暗く、蛇の標本や、鹿の頭が飾ってあり、古い武器、剣が飾られている。日本の観光客は珍しいはずだが、もっと驚くかと思いきや、全く平静に注文を取る。あまりの乖離になすすべを失ったのかもしれない。でもハンバーグは大きくて旨かった。こんなところに立ち寄れることこそこの旅の醍醐味だ。
今日の出発にあたり、砂漠での購入が困難な事を予想して、スーパーで水を買ったが、100ドル札を出すとレジの店員がこれ見よがしに透かし見て、挙句の果て、札を持ってどこかに行ってしまった。不安になりながら待っていたが、どうも100ドル札を受け取る為の上司の許可をもらいに行ったらしい。100ドルと云えば僅か9000円にも満たない額である。あたふたしている姿が気の毒になった。通用する紙幣がこんなに信用がない、偽札に対して聞きしに勝る不信の世界だ。
アメリカに地図はないというのは地図学の常識に出会う。道路に沿って、長く続く鉄道があり、何度もクロスするが、鉄道が地図に載っていない。要は、自動車での目的地への移動が全てであるから、等高線や、学校の種別、植生、川の深さ、街の大きさ、公共施設等を含めて関心がないらしい。それにしても、鉄道が出ていない地図が売られているのは世界でもアメリカだけであろう。ずいぶん違う世界に来ているのだ。国土地理院のような組織が発行するまともな地図は、観光客向け売店では決して手に入らない
サンタ フエは道路が分かりにくくかなり迷う。今までの砂漠の一本道の様な訳に行かない。しっとりした森に囲まれた人口5万、画廊200軒、美術館等10館の芸術の町だ。昔来た町の面影を探したがどこにも見当たらない。6時閉店と云う手頃な画廊数件を見て回り、宿に行く。リゾート風の台所付の綺麗なホテルだ。スーパーで各自夕食の食材を買いホテルで夕食とする。
(5月13日)金 晴れ
サンタフエ発7時、今日はあこがれのモニュメントバレーだ。何度も行き損ねていただけに、この旅の核心部分である。ガソリンスタンドがないというのでガス欠に注意する。
それにしても海抜2000mのサンタフェの朝は寒い、勇んで出発したが立ちどころに道にまよう。これ幸いと、3000mの春の雪の峠を越えて本物の田舎を走る。ロッキー山脈の南端を越えていることになるが、方向さえ間違っていなければ陸続きだ。どこかへは必ず着く。それにしても美しい。まるでスイスの田舎のような錯覚に陥る。森も、草原も、牧場も春にやっとなったかのように、全てがみずみずしいのだ。あの荒涼とした砂漠は何処へ行った。道端に残雪があり、遠くに4000m級の山が見え隠れする。むろん人間も、人家も見当たらない。すれ違う車も、この先は行き止まりかと心配になるくらい少ない。この旅の形が生んだ偶然の贈り物である。こんな道は、探しても見つからないだろう。
]]>昼は日本にもあるという地下鉄みたいな名前の店のサンドイッチを車中で食べる。フォーコーナーズは見事に何もない。赤道を歩いて渡るようなものだ。入場料一人3ドルを払って、そこに立つ。コロラド、ニューメキシコ、ユタ、アリゾナの州境である。コーナーを囲んでいる先住民の土産屋は小気味よい日陰で昼寝している。乾いた風が星条旗と、ナバホ族の旗を時たま揺らし、真昼のアメリカの陽光にある。ここに集い、なにもないことを確認して人は記念写真を撮り又散らばってそれぞれの旅に出る。なんだかこのどうでもいいようなこの時間と空間こそがとても貴重に思えてくる。
徐々にモニュメントバレーの様相。台地は赤茶けて、メキシカンハット等と云う奇岩が見える。遠くには、名もないが見るからに不思議な岩の尖塔が見家隠れする。道はまん真ん中をただ一本。どうだこの風景は。映画の一場面そのものである。
この近くは、先住民の居留地であるが、それがはっきりとわかるほど、周辺の町とのいかんともなしがたい落差がある。砂漠の僅かばかりの草の中に、ちっぽけなペンキの剥げた貧しい家がひっそりと強い太陽に焙られて地に伏している。あんなところで自分がもし生を受けたらどんな人生を送るのかと思う。車は何事もなく名もない古い集落を生ぬるい風と共に後にしていく。
今日のホテルは一人2ドル払うモニメントバレー公園の中の高台にある。ナバホ族が運営する特別な施設で、せめてこのホテルのベランダからの景観を見ようと、ここだけに来る人も多い。そこからこの不思議な地球の造形の全てが見渡せるからだ。
落日は、ゆっくりと地平線に消えていく。その間、奇岩が赤い夕日を浴びて屹立している光景は、うるさい観光客さえ完全に鎮まる。荘厳な大地の讃歌に青白い中天の月と冷ややかな風が呼応する。やがて、地上は闇が押し寄せ、尖塔の先だけが紫の夕暮れを惜しんでいる。3階の部屋のベランダから見るこの音もない光景こそ少年時代の「駅馬車」、「黄色いリボン」等のジョンフオード監督の西部劇の風景だ。 世界でも有数な景色を誇るホテルは静かで、素晴らしい環境にある。ナバホ族の管理するこの地では、アルコールは一切禁止だ。過去のアルコールによる先祖の忌まわしい歴史を反映しているに違いない。いいホテルで今日は寝るのがもったいない。
MONUMENTVALLEY ザ ビューホテル 10300円/人
(5月14日)土 晴れ
モニュメントバレーのツアーに参加。と云っても我々だけのツアーである。前日予約の現金払い一人60ドル。8時開始の約束の時間に遅れてボロ車が、やる気の無い先住民の女性案内人と一緒に来る。道は想像以上に悪い。もちろん舗装などなく、しっかりつかまらないと振り落とされる。暑さが増して、おびただしい砂埃だ。どんどんモニュメントバレーの奥に入っていくに従い、風景が一変する。
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ジョンフオードポイントはどう見ても西部劇の舞台だ。巨岩が周囲を覆う僅かな緑の谷間にかって原住民がすんでいたという。こんな月の表面の様なところでどうやって生活したのだろうか。遺跡があり洞窟に絵の一部が見てとれる。
2時間30分のツアーはでこぼこ道に翻弄され、奇岩に圧倒され続ける。相変わらず無口なナバホ族の案内人は「こんなところの何がいいの」と無言で言っている。でも、ここまで入らなければモニュメントバレーの凄さは半減する。見るだけでなく赤茶けたこの不毛の地に立つことが格別な意味を持つ。
ツアー終了後ホテルをチェックアウト。舗装の道を走るありがたさを実感する。時差が複雑で1時間早めたり、又戻したり。時間等どうでもよくなる。この大自然の中では。
ロアーアンテロープキャニオン見物。これが凄いのだ。第一に入口が分からない。大きなナバホ火力発電所の近くらしいが。どこにあるのかこの砂漠の中にまともな案内板もなく潜んでいるとしか思えない。トタン屋根の薄暗いボロ小屋に、先住民が数人暇そうにしている所がそれらしい。1時間22ドルを払って、若い案内人についていくと小さな穴があり、ここへ入れという。まさに熱砂の砂漠にかって水が流れたらしい痕跡の中である。入り口に表示もない。なんだこれはと思いつつ入って驚いた。
全くの自然の造形である。激流が何万年もの間削り続け創り上げた自然の芸術と云う表現でも不足だ。ヒヤッとする冷気が漂い、絶妙な地上の光が僅かに入り込み周囲の変幻自在な奇妙な空間を浮き彫りにする。内視鏡で人間の体内を見ているようだ。突然砂が地上から降ってくる、カメラは動かなくなるかもしれない。口の中は砂でジャリジャリ。人一人がやっと通れる狭さだ。案内人が吹く木笛がなんとなく物悲しい、栄光ある先祖の霊にささげているように聞こえる。急な階段を上り地上に出ると、暑く強い太陽の光が一斉に押し寄せる。
アメリカ第2の巨大な人造湖パウエル湖に出会う。ダム橋から高く見下ろすコロラド川は両岸の赤岩壁に守られて青く横たわり、流れているようにさえ見えない。湖の岸は入りくみ3000kmを越えるという。ヨットやモーターボートが美しく停泊しこの地域の水遊びのメッカである。遥か山の頂にはぽっかり白雲が浮かび、対岸のタワービュートが際立って、青い湖に映える。膨大な水量は久しぶりに砂漠に居ることを忘れさせる。この湖は今でこそダムとしておとなしくしているが、西部開拓では巨大な障害の谷だった。いまもなお対岸の一部は、人跡未踏で、ナショナルジオグラフィックの探検家が足を踏み入れ僅かの移動に4日もかかったとの報告がある。ボーヨーとした風景に騙されてはいけない。ここは地の果ての厳しいコロラド高原の一部なのだ。
18時、レイクパウエルの近くのホテルに入る。途中、スーパーで夕食を買う。だんだんうまくなり買いすぎる事もなく2人で12ドル。これで十分。アメリカは物価が安いのだ。1階の大きな部屋でくつろぐ。お土産を買う都度荷物が増えだした。
LAKE POWELL デイズ イン ページ アリゾナ5200円/人
(5月15日)日 晴れ
曜日も日も分からなくなって、すっかり旅ボケした。昨日と今日は珍しく時間の余裕がある。
ホテルを8時40分発。9時30分アッパーアンテロープキャニオンのツアーに間に合うように急ぐ。昨日のロアーと違いここは企業的に組織だっている。既に多くの観光客が次々に出るツアーの車を、列を作って待っている。流れ作業のようだ。適当に集まるとジープの様な輸送車が出発。すぐに砂の川底をもうもうと砂塵を上げて走りだす。
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アラビアンナイトの様な岩の洞窟が現れるところが入り口。一緒に来た現地の案内人が巧みな説明をしているらしい。あっちを見ろ、こっちを見ろ、あれがチョウで、あれが鮫、あれが人の横顔と次々に移動しながら説明する。上から砂をわざと落として観光客を喜ばせているらしい。
差し込む光に砂がきらきらとする。昨日のロウアーの原始的な、荒削りな素朴さに比べ、洞窟は大きく、手入れされ、観光地的だ。ここの案内所で、ロアーアンテロープキャニオンツアーの事を聞いたが「しらない」と言う。商売仇なのかもしれない。
11時アッパーキャニオンを出発。この周辺は特に砂が細かい。口の中がジャリジャリする。途中、ガソリンスタンドで買い込んだ、大きなハンバーグを荒野で食べる。
グランドキャニオン ノースリムに向かう道は行き止まりになる道。南のグランドキャニオンはラスベガスから近いこともあり、多くの観光客が訪れるが、北側は、交通の便が悪く訪れる人は少ない。峠を越え、松の木とトウヒの森林地帯を過ぎて、眺望がきくかなり海抜の高い残雪のあるところまで来る。途中、明らかに山火事の跡。落雷や、強風が原因だろうが、その規模が大きく、焼け跡が次々に現れる。アメリカの国立公園の場合、原則的に山火事の消火はしない。自然発生の山火事は普通の自然現象だからだ。国土の大きさがこの考えの基本にある。
グランドキャニオンノースリムは、車を降りて30分で行き着く。立派な周遊コースが幾つもあるが代表的なコースを2時間程度散策する。とは言っても数百メートルの急峻な崖沿いの道。水と食料は必ず持て等と書いてあるのだ。すれ違いは出来るが道をはずすことなど出来ない。深い渓谷を挟んで、地層が赤や、黒、茶色などと色とりどりに幾重にも重なる不思議な光景に出合う。なんでも地球の歴史のほとんど全てがコロラド川の激流に刻まれ現れているのだそうだ。ブライトエンジェルとか、ケープロイヤルとかビューポイントが幾つもあるが、どこも素晴らしく全部がビューポイントである。コロラド川までちょっと下って来る事は出来ない。往復10時間は越える。
今日泊まるカナブのホテルで韓国の団体に出会う。中国人よりなじみやすく感じる。夕食は近くのピザ屋。部屋に冷蔵庫はない。半地下の様な所だった。
KANAB コンフォート イン カナブ4700円/人
(5月16日)月 晴れ、曇り
ここまでの移動距離2047マイル(約3300km)曇り。晴れ。寒い
ホテルの近くを早朝散歩。寒い。周辺は高級な住宅街に見える。庭に、子供の自転車やプールがあり、なんとなく生活のにおいがして、日本を想いだす。犬がたまに吠えるだけで、人影はない。小さなゴルフ場が隣接されて、遠くに街が見える。すぐ裏の赤茶けた低い岩山に朝日があたりだした。牧草の中に鹿がまどろんで夜明けを楽しんでいる。
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ブライスキャニオンまでの道は、長閑な田園地帯。小川が流れ、梨や、リラの花咲く道。遠く地平線まで境が見えない。突然岩の世界が現れる。標高2500m-2800mのブライスキャニオンである。ブライスキャニオンは車でナンバー1から14地点まで廻り後は歩く。グランドキャニオンよりは明るく、なんとなく清廉された風景だが、千以上の岩峰が屹立する奇岩に次ぐ奇岩は、ローソク、女神、仏像などいかようにも見える。
サンセットポイントから尾根と谷間の、クインーズコースを歩く。見上げるような岩は非常に脆くコースを外れることは危険だ。15時発、16時着。寒い。
公園内のロッジにある立派なレストランで昼食。夏のチリソース味のスープとサンドウイッチ(変わったライスペーパーのようなパン生地に野菜を煮てつぶしたものをサンド)日本にはこれほどのものを出す山小屋はないだろう。
サンライズポイント、ブライスポイントに立ち寄り、レッドキャニオンは通過し、海抜3000mの涼しい山道をシーダーシテイに向かう。ここにも多くの山火事の跡。途中スーパーで夕食の買い物。部屋で夕食。
アメリカの公園はどこも極端にコントロールされている。ルートは整然として、全ての施設が完備している。食事も、コーラーをのんで、バーグを食べてどんな田舎にもマクドナルドやウオールマートがあって、同じものを同じ値段で、同じセリフで売っていて、同じ名前のレストランがあって、巨大スパーがあって同じものを売っている。みんな同じ生活なのに、個性を競い合い、ハンバーグの僅かな中身の違いにこだわったりする不思議な国だ。公園もいいが、それを結ぶ、田舎道がいい。小さな集落が本当のアメリカかもしれない。
シダーシティーは大学もある美しい町。周囲を雪の山で囲まれて、幅広い道路は簡単には人間は渡れない。買い物も、散策も道を越えることは危険を伴う。街にはリンカーンや他の有名人の銅像がある。寒い、小さな静かなモルモン教徒の町である。夕食は例によって、スーパーで買い物、自室で夕食だ。ここのモーテルは今までで一番貧弱だった。
CEDAR CITY アービィー イン 3400円/人
(5月17日)火 曇り
7時40分発。寒い。9時、ザイオン着。ユタ州の岩の公園、ガソリンスタンドもない、ザイオン渓谷。
まずは車を降りて次々に来るプロパンガスで走る無料シャトルバスに乗り終点まで。その先の沢沿いのトレイルを行き止まりまで歩く。途中、リスが顔をだす。見事な高山植物の花が崖ぷっちに咲いている。その先にこのバージン川の誇るナローズの絶景のポイントがあるらしいが、先日の雨による増水に加え水も冷たく、到底歩けないためここまでであきらめる。
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帰りにシャトルバスを途中下車。いくつかのコースがあったが通行止め等になっていて結局ロアーエメラルドプールコースを1時間程度歩く。橋を渡り途中に赤い絶壁の下の小さな滝を越える。少し水にぬれる程度だ。小雨がぱらつくが、大したことはない。花々が美しい。
両岸の絶壁はそれぞれ司教の宮殿等の名前があり確かに大きいが、これまで、多くの岩山を見てきているので、当初ほどの感動はない。駐車場に戻り、昼食。日本人にも多少会うようになる。この旅行を通じて、日本人にほとんど会っていないのは、地震のためと、変わったコースを歩いているからだろう。
この谷が全体に思っていたよりもこじんまりしていると感じるのは、増水で行き止まりのためにこの谷の半分も行けなかったからだろう。この辺では珍しく大きな木が育っている。もっとも水辺にしかなかったが。
ラスベガスは砂漠の中にあることが、こちら側の内陸から街に入るとよくわかる。飛行機ではその実感はないが。ここは何度来ても不思議な空間だ。立ち並ぶホテル群は、奇妙な形を競っているし、歩いているのは、どう見ても観光客ばかりで、全く生活のにおいがしない。映画や、デイズニーランドのセットの様な虚構の世界をまじめに作り上げ、そこに一瞬の時を過ごすために人々は集まってくる。
ラスベガスを見物する、ホテルはそれぞれテーマを持っていて、噴水あり、ピラミットあり、ベニスあり、パリあり、ローマあり、なんでもありだ。もちろん統一性等皆無だがここまで来ると、これでもか、これでもかと突きつけられて、この街を歩くだけで疲れる。帰りはモノレールを利用する。
もちろん、ホテルの受付ロビーは既にスロットマシンの博打場だ。夕方、MGMで中華の夕食。その後宿泊しているMGMホテルの中で、ショー(KA)を見る。巨大な仕掛けで、夢の中にいるようだ。子供のころに、三越劇場で演劇を見て以来の事で、あまりの違いと、圧倒的に押し寄せる、音楽と色彩と、想像外の仕掛けが、花火が、人が空中を飛ぶことが、大きさが、上下逆転の場面が、なんであんなことができるのかという単純な疑問が頭を完全に支配して、その内容も、題名も忘れてしまった。それほど驚愕した。21時30分開演。23時30分終了
MGMは巨大な安ホテルで、一泊3900円。但し、朝飯も冷蔵庫も無し。要は、多くの観光客が宿泊しやすいようにと何処のホテルも一部の例外を除いて宿泊費は安くしているらしい。一晩1万円は使う博打で回収すればいいことだ。24時部屋へ。こんな遅くまで外にいたのは初めてだ。眠い。
LAS VEGAS エムジーエム グランド 3900円/人
(5月18日)水 晴れ
8時出発。前夜、遅かったが、早く起きる。日本出発日の時間が朝早いので、本日中に帰国のための荷物の概略整理をする。ラスベガスを軽く一周してロサンゼルスへ行くために、砂漠に踏み入れる。とはいっても、道は7車線もある巨大で今までの田舎道とはまるで違い、周辺の風景も同じ砂漠でも自然とはかけ離れたものに見える。目的地に「ただ行くだけ」の便益一辺倒の道となる。
]]>今日はロサンゼルスに行くだけのため、途中のアウトレットに立ち寄る。一軒目は、中国人の団体が入り口を占領していて落ち着いて買い物ができない。中国人はカードは使わず全て100ドル札の現金だったのには驚いた。ブランド物の高価なバックを一人で10個もまとめ買いしている。かってのパリの日本人を想わせる。中国人の貧富の差は想像以上のようだ。幸いに商品も少なくなっていて、未連なく2件目のアウトレットに移動する。ここは本当に大きなインドアアウトレットで中にある目的の店を探すのに駆けずり回る羽目になる。それでもお土産はここで完全に整う。もちろん昼食もこの中で済ませる。初めて海に出会う。何と心休まることか。
夕飯は打ち上げを兼ねる夕食会。海岸の波打ち際にあるレストランでステーキの久しぶりのフルコース。7000円程度だが、日本だったら倍はする。夜の海に太平洋の白い波が映し出され、潮風は心地よく、料理は旨い雰囲気のあるレストランでワインが時間を忘れさせる。
ホテルは日本人の経営。客も日本人ばかり。何となくホット緊張感が解ける。食事も完全な日本食。やっぱり日本がいい。急に国粋主義者になってしまうこの単純さ。長旅のせいに違いない。
LOS ANGEELS ニューガーディナ ホテル4000円/人
(5月19日)木 晴れ
8時出発。レンタカー返し時点で全移動距離は約4480km。 日本の大部分を北から南まで移動したこととなる。KE002の飛行機は正確に11時30分飛び立つ。初めて利用したが大韓航空はサービスも機内設備も良い。
成田着5月20日15時。バスで横浜駅へ。18時30分ごろ全員無事を祝って解散。疲れた。
]]>(勝巳)
アメリカインデアンのことがいつも旅行中頭にあった。栄光のアメリカの歴史に葬られた残虐と、裏切り、殺戮の真実を忘れられない。突然荒涼とした砂埃舞いあがる不毛の砂漠になるとそこは必ずインデアン居留地だ。小さな粗末な古ぼけた小屋が点々としている。白い光の中で死んだように埃にまみれている。強靭で誇り高く、独自の文化を持ち、生まれ育った緑の大地の自然の民、それが本来のインデアンだ。
]]>アメリカの白人は僅かな期間にアフリカから5000万人の黒人を輸入し、家族や、アイデンティティーや、言語の全てを奪い、絶望的に残酷な奴隷制に縛り付けた。この結果黒人は故国とて無く、仕方なく過酷な支配におとなしく従ったが、土地勘があり、誇りを持ったインデアンは、奴隷とされても、すぐに脱走し、反抗する為、白人は、民族としてのインデアンの皆殺しを画策した。そうすることで自分たちのほしいままにインデアンの土地を奪った。過酷な自然環境の居留地への移住を強い、数百キロに及ぶ徒歩での空腹と、寒さの「泪の旅路」を強要し、虚偽の数百の契約しておきながら、たった一件も履行せず、ことごとく破り騙し続けた。
私の子供の頃、西部劇で、悪いアパッチインデアンを殺す騎兵隊の活躍に声をあげて拍手していた。無知もここまで来ると滑稽ですらあるが。 いま、アメリカには四百万のインデアンの血を引く人がすぐそばで生活している。軍は寒さに震えるインデアンに毛布を支給した。天然痘の細菌を潜ませて。軍は敵を恐怖に陥れるために戦士でない女子供を虐殺した。ベトナム戦と同じように。
いわれもなく、軍隊に脅され、幼子や老人の手を引き徒歩で一族は、不毛の極寒や、熱砂の砂漠に追いやられた。反抗には強大な武力での皆殺しが待っていた。生き残ったインデアンは親子数代にわたり、自らを卑下し、ひそかに社会の外で僅かな政府援助でなんとか生きていく事を強いられてきた。言語ですら、強制的に幼児を収容し自らの言語を捨てることを強要、従わなければ厳しい罰則を科し、そうして共同体や、民族としてのアイデンテイを奪ってきた。いまだに、居留地のインデアンの収入は平均の白人の3分の一に満たないし、失業率は50%を越え、自殺者は2倍、絶望をアルコールで紛らわす中毒者も非常に多い。居留地の水道は半分もない。ましてや、下水道は、の環境を強いられている。
先住民を追い出した緑の大地に居座り豊かな生活をしている白人は、それを怠惰、無気力と云い僅かな罪滅ぼしの政府支給すら、一方で膨大な戦費に目をつぶりながら、税金の無駄使いと反対する。開拓者が、冬を越せなかった時、インデアンに助けられ餓死をまぬかれたサンクスギビングデーが本来は、インデアンに感謝すべき日なのに、そのインデアンを殺し、いつの間にか神に感謝する日にすり替える厚顔無恥は恥ずべきことだと思わない神経が理解できない。 ギャンブル経営で豊かなインデアン部族もいるという認識は何とアメリカ的単細胞なのか。実際は、オクラホマチェロキー族の居留地の例でもギャンブル収入は3%に過ぎない。不健全なギャンブル収入の先に何があるのか。そもそもこの不毛の砂漠は彼らの元々の故郷なのか。なんで、ギャンブル収入に頼る生活をしなければならないのか。僅かばかりの自由度を与える部族国家制度は、不満を和らげ、民族を分断し、現状を都合よく維持させる方法として有効かもしれない。でも本来は、あり得ないことだが、インデアンにアメリカ全土を返すのが筋なのだ。出来ないなら代わることが何かを謙虚に考えるべきだ。 一部インデアンの怠惰を責めることは正しい歴史認識を欠いている。 コロンブスの残虐なインデアン殺戮がやっと少しは分かりかけてきた今だから考えてもいいことである。
人為的な差別の激しい、貧富の差が大きく固定的で、少数民族の悲哀がこんなにはっきり現存しているのに、アメリカは、自由と平等と人権を守るという正義の味方として世界に君臨し、多くの戦争を仕掛けている。この産軍共同国家、宗教国家は自己繁殖を決してやめない。 少数の支配層と、大多数の貧困層が、巧みな虚構の中で安定しているかに見える。独立宣言も、女性や、貧困奉公白人(売買の対象になっていた)インデアン、黒人には関係ない。イギリスからの独立戦争も利権の取りあい、南北戦争も権益の収奪戦であり奴隷解放も経済活動上の理由にすぎない。
この美しすぎる大自然の中にいて、しきりに思うのは、虐げられた人達の恨みと怨念である。この事は、まだそれを知る子孫が現存する、つい先日の出来事なのだということを忘れてはならない。
次の書籍はアメリカを考える上で読みやすい参考文献である
インデアン居留地で見たこと 宮松宏至 草思社
我が魂を聖地に埋めよ(上、下巻) デイー.ブラン 草思社
アメリカインデアン悲史 藤永 茂 朝日選書
本当は恐ろしいアメリカの真実 エリコ.ロウ 講談社
学校では教えてくれない本当のアメリカの歴史(上、下巻) ハワード.ジン あすなろ書房
ナショナルジオグラフィック2004年9月号
]]>当初、海外の山ということで今年に入ってすぐに、アリューシャン、カムチャッカ等の検討をしていたが、インフルエンザなどが邪魔をして海外でも「北海道」にしようと決まったのが2月頃。早速、山の選定に入り、どうせ行くならと盛りだくさんの計画にした。
]]>知床半島、羅臼岳、別海町、根釧原野、大雪、それに利尻岳である。
これで一週間。予算は20万円。みんなの反応は芳しくない。そこで対象を「利尻。礼文」「大雪」登山にしぼり、期間も5日。予算も15万以内に変更した。それにしても北海道の移動は車が効率的だが参加者の関係でこれはあきらめ、専用観光バスと、鉄道、タクシーによる移動にした。
以前何度も苦労したこの時期の個人旅行の羽田--稚内航空券の取りにくさのこともあり、三貴也さんの紹介で「HIS町田店」を使ったが、良い旅行社だった。2人で町田に足を運び、あらかじめ策定した当方の希望計画を示し、如何に安くできるか相談するが、基本的には、航空券と宿泊セット旅行の取扱のみで、他のJR特急購入(この点は伊久枝さん、恵美子さんが活躍)もフェーリーも、現地タクシー予約も、安い民宿も、ロープウエー、宿泊関係の送迎も、路線バスもすべて自分たちで価格交渉、契約、時間など現地との直接交渉になった。
計画は、登山中心は当然だが、観光も同時に満足させるという矛盾したものである。そのため高い料金の旅行社推奨ホテル2泊、安い登山専門民宿3泊とし、コースも、観光組も考慮した。登山では、利尻岳に登頂することを第一にして、天候を考慮し、疲れが出ない初日近くに設定。旅行中の宿泊のすべてを「温泉」にし、早朝出発、早期就寝に徹した。
収支が頻繁になり会計幹事(才美さん、幸子さん、多摩江さん)は複雑で大変だったと思う。ツアーのように誰かの引率についていくものではない。自分に出来る分担をみんなが責任もって務めることが大切だ。
長期の旅は疲れからくるゴタゴタはつきものだがそんなものは、帰って一晩寝れば霧消する。よかった思い出だけが残っている。
]]>羽田空港搭乗手続きカウンター前に全員集合。チェックインを済ませ、ANA571便稚内行の72B乗り場に移動。9時過ぎに搭乗開始、定刻に出発。
]]>離陸後は雲がかかり地上は見えなかったが、青森県上空あたりで小川原湖など海岸線が見え、ここから一気に北海道へ。北上するにつれて次第に高度が下がり、右手の窓から天売島と思われる島影。さらに高度が下がり、稚内を左手に海上へ出て右に大きく旋回、宗谷岬には風力発電の風車が立ち並ぶ。
定刻には稚内空港に到着、預けた手荷物をピックアップ、展望ロビーで昼食を食べることになったがエレベーターはなく、1階から3階まで荷物を全部持って移動。2階に戻って弁当を買おうとしたが、品数が少なくあぶれる人も。空港発のバスに早めに乗車、満員の客を乗せてバスは海沿いの直線の道路をしばらく走り、稚内市内を抜けて、フェリー乗り場へ。
フェリーの出発までの時間を利用して、タクシー2台に分乗、海沿いの道を走って北端のノシャップ岬へ。途中、サハリン行きの波止場が立派な公園になってい た。この辺の海辺でとれる昆布は、すべて利尻昆布の 名前で売られているが、利尻産と稚内産では品質が違うので、産地を確かめる必要があるそうだ。平地に建った紅白の灯台近くの展望台で強い西風に吹き飛ばされそうになりながら、記念写真。はるかかなたにこれから向かう利尻島の島影。早々に車に戻り、フェリー乗り場に引き返す。2階のレストランで昼食の食べ直し。
ややあって到着したフェリーに乗船、上甲板の客室に収まって2時間弱の船旅。利尻島の島影が大きくなるにつれて、明日の山行のことが頭をよぎる。鴛泊港に到着すると今夜の宿の「しらかば」の車が迎えに来ていた。2回に分けて宿まで運んでもらう。ロビーで早速明日の天気予報をチェック。まあまあの天気らしく一安心。携帯トイレを400円で購入。リュックに詰める物は最小限にして、明日に備える。温泉にゆっくりつかってからの夕食は海鮮料理のオンパレード。甘い味の生ウニ、ぷりぷりしたイクラ、生ホタテとひも、こってりしたタコの刺身は、どれも新鮮そのもの。ベビーホタテの紙鍋などなど。ホッケの煮付け、これがまた一段と美味だった。すっかり満腹になり、部屋に戻ると早々に就寝。
なにせ、11時間はかかる山である。初めて見た時、海上に屹立するその姿は、あんなのに登れるのかという畏怖感であった。美しい姿に惑わされてこれで4回目の登頂。道は数年前に比べてずいぶん手入れされ良くなった。その分登山者は増えたが。
]]>午前2時30分には目を覚まし、4時前に宿を出発、登山口へ。朝、昼は大きな握り飯のみ計4個。明治の帝国軍人の弁当だ。(これには後日談がある、食べきれずに残した結びを捨てるにあたり、米は特別であるから宿と相談して処分してもらうと主張、ごみ箱から回収した。米に対する日本人の忘れていた気持ちを思い出させてくれた善右衛門さんの行動は見習うべきだ)
ともかく、ゆっくり登れば全員が登頂は出来るので、時間があることもあり、休まずゆっくり登る。初めのピッチが肝心で、まずは60分程度継続して登り、休まないでペースをつかむ。ここで、乱れると長時間登山は難しい。深い森の中でもあり、風もあったので暑くも寒くもない。いつ雨が降るかと思われたが、山頂近くでは陽がさしてきて突然海が現れる。長官山の無人小屋に着くころは天候も安定して登山日和だ。残りは90分か。山頂近くのガレバも修復されて悪くない。かえって、緊張感が疲れを忘れさせる。小さな祠が山頂にあってやっと一息。瞬間、海が一望できる。
混み合う山頂を早々に切り上げこれよりいよいよ、難物な下りである。長すぎる休憩は害こそあれ益はない。整然と隊列を整え出発。ともかく事故を起こせば引き続く旅行の全部がダメになる、それ以上に本人が苦しむこととなり、目的は達成されない。下りの長い道で一人の転倒による怪我人も、筋肉痛者も出さないよう経験と知識を駆使し、全神経を傾注する。多くの休憩を取るのだがその度に、最適な場所選定、弱い人の疲れ具合、リックの加重、気温、日光の当たり具合、残りの体力、士気、緊張度合等を総合勘案する。何度も水分補給をし脱水状態に備える。宿で購入した移動トイレ袋の使用はどうもなじめず、登山中我慢したが、信じてもらえないようだ。日ごろの言動の結果か。
甘露水の音がしてきた時は、万歳を叫びたかった。70歳アラウンド(アラセブン)の人たちが、誰ひとりの怪我も事故もなく登頂したのだ。これは、わが会の誇りだし、本人も孫に伝えられるほどの自信を持っていいことだ。
ましてや、78歳の登頂は驚愕だ。まさしく、身近に我々の目標がいる。全員があと10年このようなまともな登山ができるよう日頃から努めたい。健ハイの目的はそこにあるのだから。温泉に入り、うまいビールを飲んで今日は早々に寝よう。明日は花の礼文島だから。ともかく本当によかった、事故者が出なくて。
(昨年、雨飾に登った時、宿の人が言うには、7組の商業ツアーが来れば5組が事故を起こし、救援に出る状態と言っていた。それよりも困難な山に無事故で行ってきたのだ、良い記念にならないはずがない)
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(記録担当 観光組:多摩江)
晴れ 気温18℃
日本最北の地、利尻島に昨日降り立った。早朝3時には、利尻富士に登山する方達は起床し、4時には、宿の車で登山口に向け出発した。観光組の恵美子さんと多摩江は、7時に朝食を摂り、8時に宿の車でフェリー乗り場まで送ってもらった。
"大自然利尻めぐり"の3900円のコースチッケトを購入する。バスで待っていると到着した連絡船から多くの人が乗り込んできた。忽ち、一杯になり2台目のバスが用意された。
姫沼に向け出発する。左側に海を見ながら3分程行った所で左折し、急坂を7分走ると姫沼に到着した。原生林に囲まれた周囲約1km程の木道を行くが、観光客が集中した為、通勤時のラッシュアワーの様で遅々として進まず、時間ギリギリでバスに戻れた。
姫沼を出発し、利尻島郷土資料館に向かう。枝が上向きがトド松、下向きがエド松とガイドさんより説明を受けながら両側を見ると、おおいたどり(シップ代わりになる)が群生していた。海岸通りに出るとリシリヒナゲシが淡黄色の可憐な花を付けて出迎えてくれた。通り沿いに、ペリーより5年程前に来日したラナルド・マクドナルドの上陸記念碑が建っている。彼は、米国で亡くなる時に"さようなら"と言ったと言う。右手に所々に雪を残した利尻富士が見えてくる。雪が完全に溶けるのは9月に入ってからだ。郷土資料館は、昭和40年までは旧鬼脇村役場として使われていただけあり趣のある佇まいだ。昔はニシンで隆盛を極めた事が良くわかる。ニシンは海流の変化により獲れなくなった様だ。
資料館を後にし海岸通りに出て、近くのオタトマリ沼へ向かう。海岸から近いせいか、ひっそりとした姫沼とは対照的に明るく陽気な雰囲気。散策路もあるが、今回は湖畔でウニ(本土にいくと焼ミョウバン処理されたもの)の軍艦巻、焼きホタテ、ソフトクリームを食べて大満足する。湖畔には、菖蒲が紫色の花をつけている。
利尻島最南端にある仙法志御崎公園に向け出発する。途中"フクロマ"という沢山獲れ過ぎたニシンを一時仮置きして置く場所がある。海際に囲いを作り、その中に網袋に入れたニシンを仮置きしておく。奇岩怪石が点在する利尻島最南端の岬である。磯沿いに遊歩道が設けられ、迷子になったアザラシの子供2頭に餌(オオコウナゴ)をやることが出来る。花は、エゾカンゾウ、ハマナス、リンドウなどが咲いていた。海抜0mから利尻富士を見ることが出来る所で、登山者は、此処で足を海水に浸けてから利尻富士に登るといわれる。今日は残念ながら利尻富士を見ることが出来なかった。
利尻富士5合目を目指してバスは走る。海岸沿いを進むと、海難救済の祠、寝熊岩、人面岩【ゴメ(ウミネコ...足が黄色とカモメ...足がピンクの総称)が沢山止まっている。】を見ることができる。沓形市街地(街灯がリシリヒナゲシ)を通り、暫く行ってから右折し、森の細い道をどんどん登って行く。木々の緑が陽に映えて実に綺麗だ。駐車場に着き、下車する。空気が清冽で心洗われる様だ。後、百段の階段を上ると5合目に着き、眼前に利尻富士を仰ぎ見る事が出来る。見返台と呼ばれる場所だ。頂上はガスって見えない。今頃、皆さんはどの辺を登っているのかなと思い眼を凝らすが。周囲の木々が萌黄色で眩しい。
沓形岬公園(ドント岬)に向け出発する。沓形岬公園に着くと沓形港よりフェリーに乗船する方達は、ここで下車した。この岬は、礼文島を間近に見ることが出来るが、今日は残念だ。足元にはチシマフウロやクロユリがひっそりと咲いている。夕陽の美しい所で、しかも此処からの利尻富士は素晴らしいらしい。誠に残念である。この地にもサルナシ(こちらではコクワ)が沢山採れるのでその実をドライフルーツにして売っている。
最終地の鴛泊港に向け出発する。途中、飛行機を利用する人は飛行場で下ろして貰える。海岸沿いには、エゾカンゾウが群生し海の色を背景に実に見事だ。島内には、信号が9個しかない為か快適なバスドライブである。流氷は暖流が近くを通っているので此処には来ないそうだ。そうこうしている内に時間通り鴛泊港に到着する。
遅めの昼食に、ウニ丼を期待していたが今日は漁が無い為、海鮮丼に相成りました。実は、利尻ラーメンを注文したのにお店のほうの手違いで海鮮丼になりました。その後、漁協の店にお土産を買いに行く。お店を出たところ、雨がぱらつき出したので、歩いて帰るつもりだったが、電話をしピックアップして貰った。利尻富士登山の方達は、未だ戻って来ないので、先に温泉に入って待つことにした。