実施日:2021年11月10日(水)ーー11月13日(土)3泊四日
参加者: 7名。(男3.女4)
憲治(レンカカー)。貞子。勝巳(計画、記録)。才美。
達也(会計行動記録、写真)。茂子。和子
総レンタカー走行120km。総徒歩30km。総費用約7万
第1日目: `21/11/10 (水)
瀬戸内海はまだ紅葉に早い。東北は終わりになるころ。日本は広い。長い新幹線も東京始発、岡山終点。早朝起床でも安心して眠れる。車内はガラガラで座席指定はいらない。コロナで多くの計画倒れの後やっと実現できた旅。岡山から、宇野線に乗ると途端に寂しくなる。地方都市は中心部を10分も出ると田園風景。宇野は戦時中は軍港。今は「ののちゃん」のまち(朝日新聞朝刊連載漫画)と平和そのもの。のんびりしていて外来者にはフエリー乗り場が分かりにくい。全て車利用者への表示で徒歩者への案内はない。見事にフエリー乗り場に行ってしまい、かなり離れてる客船乗り場まで広々、閑散な広場をぞろぞろ歩く羽目になる。
第一泊は公共の宿。落ち着く。もちろん建物は古く陰気。公共の宿はどこもそうだがサービスは1級。フロントの適切な対応は四つ星、食堂の担当者も気軽で、親しみがある。料理も料金に比して種類と量が多く食べきれない。静かな宿だ。部屋から瀬戸内海が。
第2日目: `21/11/11 (木)
小豆島の印象は新任教師と12人の子供の物語木下啓介の「二十四の瞳」に尽きる。
今でも終戦記念日はこれを観て涙と共に戦争を考える。当初DVがなく、テープを特に松竹の知り合いから手に入れた。小さな子供たちすら戦争に巻き込まれ、人生を変えていく。貧困の中に消えていった名もない人たちの生涯を重ねて、私たちの時代のついさっきまであった物語を垣間見る。逝去した島の知人の話をききながらかって家族で訪れた「岬の分教場」は夏の陽に白く静まり返っていた。オルガンや、子供たちの声が聞こえる。あれから40年。その分教場は何一つ変わらなく波の音のなかに建っていた。
大阪城の石垣に使ったためか、石には黒田家の家紋が残っている。それにしてもどうやってこんな巨石を運んだのだろう。海上はともかく、陸上は。巨大な城も縁の下の力持ちがあってのこと。この島は石切場が多い。伊豆西海岸にも江戸城のために同じようなところがあるが、巨岩が地表にあって、海が近く、もちろん城に近く地理的にも似通った場所なのか。城の構築には欠かせない大名にとっても大切な場所。石工の技術はかなり高度。なにせ、重機も削岩機もクレーンもないのだから。
悪路を避け同じ道を引き返し草壁港から神懸通りを経てブルーライン、星ケ城に至る。星ケ城山は小豆島の最高峰812m。西峰、東峰があり東峰が最高峰。分岐でどちらにするか迷ったが、多少の時間差なら最高峰に登ろうと、やっとハイキングクラブらしい意見が一致。道は森の中。雨が上がってもしっとり濡れている。山頂らしき所に、灯火台と思しきもの。石積みの異様な日本離れした構造物。地蔵さんもまつられているので、単純な烽火場ではなさそうだ。他の登山者グループに出合う。道の両脇は猪のぬたば。掘り返されつくしている。この島には非常に多くの猪がいる。畑も、全て猪除けの電線。星ケ城からの眺望は生憎の天候。いよいよ、有名な「寒霞渓」に至る。小豆島観光紹介では必ず、この渓谷の写真があるほどだ。実際は東北の紅葉をより、暖冬の国の紅葉は少し褪せる。ケーブルを利用すれば渓谷の岩山は見事だとのことだったが、往復で2000円近い料金に抵抗し、車で山頂へ。それでも景色に差はない。ケーブル山頂で昼食場所を当てにしていたが、見事外れ。案内書のレストランは貸し切り。他は、場外で食券をかつて、自分で料理を運んで、食べて返す。3種類から選ぶ。もちろん、アルバイトの造るもの。これしかないので、ここで昼食。(食べ物屋の少ない場所で貸し切りにする観光業者の無配慮が嘆かわしい)
小学生がバスで大勢来て、皆赤い帽子、空色のジャージの制服、楽しそう。この子たちのための貸し切りならあきらめるが。周囲には展望台が多い。雨上がりの山と海が逆光に光っている。四方指展望台とは大げさと思いきや、本当にその通り。景色は絵に描いたようだと言うがここはその場所。立派な舗装道路のスカイラインを中山千枚棚田に向う。千枚田が島にあることは珍しい。ほとんどの瀬戸内海の島に稲作はない。水の関係だ。なのに、千枚田。これを造り上げたその先祖の苦労は並大抵のものではなかったろう。石を運び、段差を作り、水を引き、全てを細い農道で行う苦労。見事だ。それを裏付けるように天皇皇后が見えたとの碑がある。生憎の季節で稲作の模様は想像するしかないが、かなり畑は大きい。もちろん全部猪除けの柵のなか。いちいち、田圃を行くには柵止めを開け閉めし超えていく。雨上がりのぬかるむあぜ道を適当に歩く。なんだか島にいる気がしない。
宿にはまだ時間があり、エンジェルロード(天使の散歩道)による。潮が満ちていて、道は海の中。それでも観光客が来ている。潮の満ち引きの時間に関係なく、観光のスケジュールを優先するためだ。続いて迷路の町。何か迷路があると誤解している人もいたが、「込み合っている家が連坦」しているだけ。西光寺からの俯瞰はきれいとは言えない。人の家を上から覗き見ている感じ。無理に観光地にしているとしかおもえない。 ホテルは土庄港直前の白亜のオーキドホテル。5時30分着で、レンタカー返しが出来た。
第3日目: `21/11/12 (金)
8時30分、土庄港発フエリーで、豊島家浦港へ。天気は良い。温かい。9時30分豊島着。
本日の宿「古宿 たかまつ屋」をさがして荷物を置く。港のバス停から小さな島民用の新しいバスに乗り甲生(こう)集落へ。200円。客は我々だけ。終点に降り立ち引き返すバスを見送ると静寂。いつものことだが心細い。
もともと豊島は豊かで、地下水があり古代から米がとれこの名前が付いた。人口800というがもっと少ない感じがする。戦後まもなく賀川豊彦が活躍し乳児院、老人ホーム、精神薄弱者厚生施設のある「福祉の島」として名をはせたが、1970年代は不法投棄の産廃の島として不名誉な名を轟かした。島民の努力で環境の再生はいまだに続いている。廃棄物の下には、旧石器時代、縄文時代の遺跡がある。この島に来たのは、小豆島だけでは本当の瀬戸内海を体験できないためあえて不便を忍び訪島した。本物の島は、なかなか足を踏み入れられない。交通の便だけでなく、宿も、昼食場もない。道だって鳥獣の住む道。それが現実。この島は、その後の努力で、何とか現代アートの美術館等を招致して努力している
がこの方向しかないのだろうが、一抹の寂しさは部外者の恣意か。
第4日目: `21/11/13 (土)
7時55分発のフエリーを待つ。待合室に「犬島」という島があることを見つけ、俄然興味が。島名から何かあると調べたら、銅の精錬所跡、石切り出し跡、行かないでよかった。
宇野から岡山直行の電車に間に合って岡山での時間に余裕ができた。岡山城は工事中。エレベーターをつけるらしい。城は入りにくく造るのに、金をかけて、今やだれでも入りやすくする時代。史跡の保存問題があるだろうに。代わりの岡山後楽園は名園である。知る限り日本一の名園だ。岡山城に隣接、庭園全体が旭川の中洲にある。周りは堀ではなく天然の川。当然その流れを利用して、高低差を取り入れ園内に自然に溶けこませている。高齢の女性ボランテアの説明を受け、短時間で効率よく見所を理解できた。城と一体に作られ、領主はそれを日常的に利用していた。回遊式庭園で、絶えず桃、桜、ツバキ、蓮、菖蒲、山茶花、若葉、紅葉等何らか楽しめる。大名の残した数少ない国民資産である。馬場や、弓道場、鶴舎まである特別名勝。この公園は、ついでに来るところではない。目的をもって、季節を変え何度も来るに値する。天気も良く、着飾った人が遊歩している、菊を見る園遊会も昼飯と抽選権付で2500円と庶民的。岡山駅で昼食。
第一日:
第二日:
第三日:
第四日:
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