No.361 果無(はてなし)、大台ケ原、紀伊半島南端 (2017.5.18~22)

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image (13)b.jpg記録概要  ともかく全期間薫風の好天に恵まれたことが何より。事故も、怪我も、病人もなく10人もの高齢者集団がこれだけの難路を踏破したことは立派を通り過ぎて賞賛に値する。
それにつけても深い杉林や薄暗い森の全コースの曲がりくねった道。すれ違いも崖っぷちに待たなければ出来ない坂道を延々と巧みに運転した一朗氏の献身的貢献があってのこと。大台ケ原から十津川へは並大抵の一筋縄ではいかない道だ。紀伊半島の心臓部だろうがいまだにどこを走ったのか分からない。

毎度のことだが、この種の遠大、複雑な準備計画は半年前から始まる。大台ケ原の宿は1か所。満員になれば計画は日程、コース、交通手段等根本から変える事を余儀なくされるためでもある。加えて年間3500mmの豪雨地帯。安全な逃げ道をいくつか策定準備することも必須との条件も加わる。
それにしても参加者の見事な協力がなければできることではない。たとえば集合や、出発時刻は分単位で正確。訪れた山域の素晴らしさもさることながら、そのすべての行程を完全に達成できたことは参加者全員の自信につながる快挙だ。この中から、今後認知症になるものは皆無だろう。と思わせるほどだ。
実施日;2017年5月18日(木)出発~5月22日(月)帰着 4泊5日。
参加者;10名(男4・女6) 勝巳、才美、憲治、貞子、達也、茂子、一朗、幸子、邦子、亮子。
集合;5月18日午前6時30分 新幹線新横浜駅下りホーム 自由席付近。
切符は
    行き;
    新幹線特急券;新横浜~名古屋(ひかり501号利用)。
    乗車券;新横浜~松阪(みえ1号鳥羽行利用)。
    名古屋乗換(快速みえ1号鳥羽行)松阪下車。
    指定席購入は各自の自由。
    帰り;
    事前購入せず、帰着当日に現地購入(計画変更対応)。(駅への到着時間により近鉄特急を利用検討)。
    ジパングでの切符購入時に「会員手帳」が必要(JR東海利用の為)。
    ニホンレンタカー車両トヨタハイエース(ワンボックスカー)10人乗83592円(ガソリン別)松崎借り――松崎返し0598-52-0577 日別の座席を事前指定(担当;憲治)。
    参加者用、緊急連絡先名簿配布。
5月18日(木)快晴 無風 東大台ケ原(日出ケ岳コース)徒歩3時間
image (17)b.jpgコース;
新横浜6時46分発(ひかり501号新大阪行自由、指定席は各自選択)――名古屋8時18分着(8時37分発13番線みえ1号鳥羽行)――松坂着9時55分――(レンタカー)10時20分発――4時間――大台ケ原着14時20分。
大台ケ原駐車場発14時30分――日出ガ岳15時10分――正木嶺15時40分――正木が原16時――尾鷲辻16時15分――「心・湯治館」着17時20分――18時30分夕食――20時今後の打ち合わせ。
大台ケ原東コース
もちろん国立公園。西に比べて東コースには入山規制もなく稜線の木道を歩く快適な道だ。荷物は車に置いて軽装で出発。でも、快晴で無駄な荷物になるのは覚悟の上、「雨具対策装備完全持参」とする。こんな日本一の降雨量の場所へ、いくら快晴と言っても雨具を持って入らないのは山に対して礼を失する。雨具はそうでなくても山登りの税金のようなもの。10回に一回しか使わず、9回は無駄になるのが雨具と言うものと理解しなければいけない。そう、たった一回の為に。そのことはやがて経験を積むうちに嫌と言うほどその意味を知ることになるだろう。緩い登りを40分も行くと日出ヶ岳だ。木造の立派な展望台まである。遠く北に台高山脈の尾根が続き、東は深く長く大杉谷が切れ込む。西は前回登った小辺路の伯母が岳だろう。周囲は山また山。土地勘もなく、知らない山ばかりだ。道は低い笹原の中にCIMG0743b.JPG点々と枯れ木の巨木が屹立している中を行く。鹿の食害の結果という事だが2001年に来たときは鹿を多く見たのに今回は一度も鹿に遭遇しない。五月の空に囲まれて快適に稜線の道をゆっくり登り降りする。長い、車移動から解放され爽快な風景に身をゆだねる。尾鷲辻からは等高線沿いの森林に入り今迄の高原状の風景が一変する。早い山の夕方を迎えるころに大台ケ原の駐車場に着く。木造の今日の宿までは30mもない。こんな山上に風呂があるのはありがたい。思ったより大きく150人は泊まれそうだが山小屋と思えば空いている。食堂ではお互いに話をしないのですぐにツアーと分かる団体もいる。夜は冷え込んだ。虫もいない。少しストーブをつける。来る途中、電柱は見かけなかった。電気はどうやって供給してるのだろうか。水もだ。夜、星を見る。みんなで知ってるのは北斗七星と金星だけ。満天の星全部のうちこれだけ。みんなが知らないのは理科教育が悪いらしい。
大台ケ原という処
CIMG0737b (1).JPG大台ケ原に大台ケ原山と云う山は無い。此のあたりの山の総称。駐車場を中心に東西に2分されている台地山域が大台ケ原である。この地域の歴史はせいぜい150年。日本国内でこれだけ永く人跡未踏だった地域は少ない。原因は山が深いこともあって、山の民にすら魔の山として恐れられていたからだ。道に迷えば出ることはできない、原生林は視界を遮り、方向すら見失う。かの有名な神武天皇が道に迷った時の八咫烏に先導されて助かった話はこの辺りの山域の事とされている。そのためか、奇怪な伝説も多い。一本足の一つ目の「1本ただら」等は今に「ただらの力水」として名を残している。大杉谷を始め多くの深淵な谷は、いまだにその高さの測定が不正確のまimage(18)b.jpgまであり、谷底には巨人山姥が住むという伝説が生きている。更に加えて豪雨地帯で1923年9月14日の1011mmの1日の降雨量はいまだに破られていない。これは、1年間の普通の地域に降る量に匹敵する。この神をも恐れない降雨の中では、崖は崩れ、道は崩壊し、森は破壊され、山は轟々と泥沼化し、雨で視界は自分の手足さえ見えず、天地裂ける轟音にすべての音は閉ざされ、峰や谷の地形は劇変しただろう。それに近いことは普段に起り得るところと恐れられた地域なのだ。1721年、幕府の命で薬草を取りに入った記録ぐらいがわずかにあるのみ。明治初め、蝦夷地探検家で、大台ケ原に墓のある松浦武四郎が初めて紹介してこの地が世に知られるようになったに過ぎない。驚くことに、この最悪の辺境の地に開拓の痕がわずかに垣間見える。かって、下北半島で草生す中に石碑を見つけた。満州の開拓に敗れ、再度入植した下北をまた去るという碑文だ。どんな人が家族とこの極寒の地にどんな希望をもって分け入ったのか。血のにじむ過酷な労働をしても安住の地に変えられなかった人達の怨嗟の声を聞いた、その時と全く同じだ。ここの開拓はそういう処だ。開拓民の無念さが漂い満ちている。
ここまでの自動車道はすれ違いも満足にできない崖沿いの道だったがそれすらも歩いてこの地まで分け入った先人の労苦を思えばーー。
登山行動は最小限の荷物で(水、雨具、非常品、懐中電灯等)他は車中に。
宿泊先 「心・湯治館」(こころ、とうじかん)。(0746-82-0120)風呂あり。洗面具、タオル持参)19日の昼食弁当依頼。6畳3間。(男4×1部屋、女3×2部屋)10人予約。9千円程度。宿名の(心)とはリラックスさせる心の意味で他に意味は無い。温泉ではない。 標高1500mを超えるため朝夕は寒い。
image (26)a.jpg5月19日(金)。快晴 無風  西大台ケ原コース 徒歩6時間弱
コース;(入山許可証。身分証必要)
7時朝食――「心・湯治館」発8時10分(チェックアウト)――ビジターセンターで西大台ケ原の説明会8時30分開始――入山手続、説明会終了後9時出発――大台教会――入山手続所(9時15分)――七ツ池湿原跡10時20分――開拓跡11時10分――開拓分岐11時30分――古い赤さびた3橋――たたら力水場12時30分――中ノ谷木橋12時10分――駐車場着13時30分――駐車場発14時――所要3時間169号線166号線等北回りで十津川村へ――奈良県五条ルート――(夢の湯温泉等立寄り60分有料600円)――18時農家民宿十津川村内野「山本」着――18時30分夕食――20時翌日の打ち合わせ。
大台ケ原西コース
P5191088rvsd- (2)a.jpg快晴。チェックアウトをしていらない荷物は車に置き、入山は軽装備。朝食の時に弁当を受け取る。昨日、と今朝の食事はどうしてこんなものが作れるのか不思議なほど。山小屋だから仕方ないというが電気も水も豊富なんだからもう少し工夫してはどうか。 厄介な事前の入山手続(有料)に次ぎ、現地でも朝8時30分からビジターセンターでの30分に及ぶ入山者への説明会。個人名入りの「西大台ケ原利用調整地区」の立ち入り認定証を手に入山ゲートへ。駐車場から意味不明で、誰も居ない大台教会にお参りしてから5分もしないところで2人の屈強なおじさんが空港並みに入山証を名簿と照合。無事確認を終えて緊張から解放される。一度に10人。30分間隔入山、一日50人に制限されている。コースは標準の時計回りでもその反対でもいい。標準を行くこととする。西コースはさすがに昨日に比べて前後を見ても登山者は誰も居ない。若葉のむせる平坦な道に快適に入り込む。
image (30)a.jpg倒木の森に分け入るような場所が多い。七つ池とは名ばかりで少し広くなった森の広場を過ぎる。かっては、雨季に池ができることがあったのだろう。ロープで森に立ち入りを禁じてる道は決して悪くは無い。ロープの色さえ黒く目立たなくしている。でも少しオーバーユースだ。この程度なら奥秩父に行けば普通の山道。と思っていたが進むにつれてそうではないことがわかる。森はますます深くなる。辺りは静寂。キツツキのドラミング。鶯の声。若葉を渡る風の中の木漏れ日の道が続く。高低差は少なく開拓跡などが出てくる。開拓者が大根を植えても雨が多く全て腐ってしまうところを想像できるか。いくつかの水量のある沢を飛び石や、木橋や、古い鉄の橋で横切る。道は部分的にわかりにくく注意を要する。ブルーの小さなリボンを慎重に見失いように辿る。前後に人はいない。離れれば心細い思いをするだろう。入山規制の効果だ。特にいくつかのかっては赤い橋だが今は錆びつき茶色い吊り橋を渡るとき清流の中の石の間や、トロにあめごと思われる魚影が奔る。もちろん漁獲禁止。松ぼっくり一つ持ち出しても動かしてもいけない。アメリカの国立公園と全く同じだ。あめごは人が近づくと逃げるがすぐに寄ってくる。深山の谷川に住む魚らしくない。image (38)a.jpgなんだか友あり遠方より来るとみてるようだ。道標などの工作物も最小限で、倒木もそのまま。橅や小楢、トウヒの若葉が光る森が奥深く続いている。誰も居ない、人工が加えられない豊かさ。この原始静寂の雰囲気は何物にも代えがたい。途中珍しく横浜から来たという3人の高齢の女性連に逢う。なんと大杉谷から登ってきて今日3時のバスで帰るという。このへんに来ると変わり者も本物だ。ナゴヤ谷を越えればだらだらとし登りを過ぎ駐車場は近い。駐車場の売店で冷たいものを買う。急に下界に戻った。
  • 徒歩6時間弱の後運転3時間運転、疲労注意。荷物は最小限に。他は車に積む。
  • ビジターセンター(07468-3-0312) コース出発は50人単位で30分間隔。
  • 入山カードと個人の「身分証」必携(入山時許可証と身分証を原則個人別に対比)。
    宿泊 農家民宿「山本」186-0746-67-0076(10名予約十津川)9千円程度。20日の昼食弁当依頼。
農家民宿に泊まる
十津川村内野。どうしても烏骨鶏の鳴くこの民宿にと再訪する。懐かしい。周囲は数軒の家だけ。あとは山ばかり。ここに至るまでの川原は砂利に流れは埋もれ、枯れて細い水流は濁って茶色い。数年前の台風被害か、ダム放水の影響だ。早朝散歩中に民宿の下の家のお爺さんに出会う。すべての大小の畑は網で囲われている。鹿、兔、猿、ハクビシン、イタチ、猪が全て出るそうだ。特にイタチは、鶏を襲い血だけを吸う。肉は食わず皆血を抜かれて朝起きると鶏の死骸がゴロゴロしていたそうだ。野生の現実はなんとも厳しい。
この集落の更に奥の行き詰まりに3人の老婆が住んでいる小さな集落があるという。粟や稗を上手に作りほとんど自給自作の生活をしているそうだ。80歳を超えてもお互いに小さいころからの名前で呼び合い、助け合って日本昔話のような生活の人が住んでいる。やっぱり十津川村はいい。こんな話はここ以外で聴くことはできない。鶏の声のなか、早朝の坂道でお爺さんから話を聞いているだけでもうれしくなる。これだけでここに来たかいがある。話は戦争におよび、こんな小さな集落から14人も出征した。村全体では300人もが。多くの人が帰らなかったという。別れ際、自分もニューギニアから帰ったといとも簡単に言う。あの、地獄の飢餓でほとんど全滅した戦線から飄々と買い物から帰ったくらいに言い放つ。凄まじい人間に出会った。自分のひ弱さにこの時ほど情けなく思ったことはない。 夜、星を首が痛くなるまで暗い庭先で観る。沢の音と山を渡る風の音それだけは聞こえる。
5月20日(土)快晴 無風 暑い 果無越え 徒歩5時間30分
image (19)a.jpgコース;
起床5時――6時30分朝食――宿7時30分発(弁当持参)――車――風屋ダム7時50分――柳本橋――果無集落岩本宅8時縁側、世界遺産碑石――果無登山口出発9時――徒歩――天水田跡9時30分――山口茶屋跡9時45分――観音堂(水、トイレ有)10時20分――果無峠11時15分(1060m)11時30分下山開始――途中逆方向からの一朗氏合流11時50分――20丁石12時――30丁石12時30分――七色分岐13時10分――林道出会(八木尾)14時30分着――(以降車移動2時間)――道の駅15時――熊野本宮――新宮着16時――香梅堂和菓子店――紀伊勝浦宇久井、宿着16時30分――温泉――18時30分夕食――20時翌日の打ち合わせ。
果無峠越え
michi.jpg前年熊野古道小辺路で悪天候の為最後に残したのがここ。今回は好天の元挑戦し熊野古道小辺路を完歩した。出発して間もなく何気なく民宿の方を見ると、ご夫婦が律儀に並んで手を振っている。渓越しにあんなに小さく見えてるのにまだ手を振っている。もう再会することもないだろう。停まって車を降りて手を振って別れるべきだったと、いま、しきりに悔やまれる。出来ることなら、もう一度あの場所に戻って手を振って別れたい。あのご夫婦の崇高な心情に寄り添いたい。
果無集落への登り道は狭い道だ。幸い対向車がなく何とか村の駐車場を過ぎて、熊野古道小辺路登り口迄行く。軽装備で果無に向かう前に縁側のあるポスターの岩本家に一朗さんの知り合いに案内してもらう。全国から来る観光客で住民は迷惑しているそうだ。先日も、朝起きたら庭にテントを張っている人がいたという。縁側も、水飲み場も、大きな鯉も、古い岩畳もみんな本物。傘をさして農作業するお婆さんも無口で、愛嬌こそないが正真正銘の生活者として本物だ。観光的要素などは皆無。9時、いよいよ果image (27)a.jpg無峠越えに向け出発。道端に祀られている小さな古い観音像は三十番石仏観音像から始まりここから番数が少なくなり最後は四番観音まであるようだ。昔から峠を越える旅人を見守ってくれているに違いない。登り口の、急な登りを経て天水田跡に至る。揚水は無く、全て雨水で米を作るというが何とも凄まじい労力を要する事だろう。雨のたびに水をためておくという。米は一時期、水の中で作るものだ。天水だけなどと言う田圃を見たこともない。いくつかの石仏を数えて、立派な観音堂に至る。豊かな水場があり、簡易ながらトイレもある。このコース最大の休憩設備だ。多少の急坂はあるが、ここまでくれば樹木に覆われた半壊の宝篋印塔のある果無峠は近い。峠は南北に越えるが、果無山脈は東西に長く伸びている。以前この山脈を歩いたが実に長い。登り降りが延々と繰り返す、それこそ果てしない。峠を越え降りが始まる。厄介な道だ。岩があって歩き難いうえに急坂、それに長い。途中一朗さんの出迎えを得て、七色分岐。ここまでで十分に疲れさせてくれる。何となく里近い五image (37)a.jpg番観音までくれば傾斜も緩み、歩きやすくなる。何のことはないすぐに林道に出るからだが。林道に車が横付けされた。昔の人には申し訳ないことだが、いいかげん降りに疲れた身にはありがたいことだった。
  • 果無越えの荷物は、最小限に(弁当、雨具、水筒、杖、非常品等)他は車で運ぶ。
  • 果無集落からの車移送方法。
    宿からレンタカーで果無集落へ。一朗さんは集落で全員を降ろしてから八木尾バス停周辺に行き駐車する。其の後八木尾から逆image (44)a.jpgに果無峠に向かって登り我々と途中合流。果無下山後、駐車してあるレンタカーで紀伊勝浦の国民休暇村へ。
  • 宿泊先 「国民休暇村南紀勝浦」0735-54-0126 10人2連泊。
    紀伊本線、紀伊勝浦駅車20分 連泊料金で土用の為二人利用で11500円等。
    二人利用3室。三人利用1室、一人利用1室。
(以下の5月21日~22日の記録は達也氏の作成工程表をもととした)。
5月21日(日)快晴 無風、暑い 大地、紀伊半島先端周辺 徒歩2時間程度
image (48)a.jpgコース;(国民休暇村――串本間35Kmの往復)
起床5時――早朝散策5時30分発――朝食7時――宿8時発――9時燈明岬――9時40分梶取岬。(5Km)――10時15分「くじら博物館」(くじらショー(1500円)――「くじらや」昼食11時30分(前日メニュー予約0735-59-2323弁当1300円。くじら定食2300円等)――13時串本町橋杭岩(散策、儀平うすかわ饅頭)――大島散策14時――14時30分伊勢大島――トルコ記念館――樫野埼燈台――潮岬(本州最南端)15時――オザキ干物店15時20分――太地町15時10分――宿着16時30分――20時翌日の打合せ。
一朗さんは梶尾岬の駐車場にレンタカー駐車後、茂子さんの弟さんに送られて再合流。
宿泊先 部屋は前日に同じ「国民休暇村 南紀勝浦」和歌山県東牟婁郡那智勝浦町宇久井 2連泊料金 日曜で1室2人利用は9600円等。
南紀最先端。大島、潮岬
P5211333rvsd-a.jpg紀伊半島は、地形的に、足摺岬、伊豆半島、房総半島に類似している。黒潮が流れる関か 林相も近い。しかし足摺、伊豆、房総よりもかなり開けている。たぶん、断崖と急峻な山 地が接している狭い平野部分が半島部分の大きさによって比較的広さがあるからだろう。
それに、海の航路を使えば案外大阪や京都などの大都市に接近している。
だが本質的には、此の地の民の進取の気鋭に違いがあったからかもしれない。海に乗り出 る勇気が捕鯨や新しい漁法を開拓したし、多くの港にこの地の人たちの文化や技術を伝搬してきたに違いない。
image (29)a.jpg鯨は人のいい顔をしている。300円分のくじらのえさをやるときにも、辛抱強く口を開けて立ち泳ぎをして待っている。何も疑わない何も心配しない悠々とした無邪気でいじらしくもある眼をして。しかも我々に興味を持っているのが明らかだ。相互信頼を理解できる高等な能力を持つ。餌をもらえない鯨は存在を示すがごとく高く飛び跳ねてねだっている。出来ることならペットにして飼いたいくらいだ。
海は黒潮の色。関東の海とは色が違う。宿から見える海は穏やかだが此の海には一瞬にして30mに及ぶ津波を海底深く隠している。美しい白砂青松の村々はひとたまりもないimage (40)a.jpgだろう。多くの人たちの故郷の長閑な風景は切り裂かれる。此の海がそんなことをと考えたくない。
樫野崎訪問。トルコ記念館訪問等
オスマンントルコの軍艦「エルトゥルル」号2344トン、小松宮殿下トルコ訪問の返礼と天皇への勲章奉呈訪問の帰り、台風に遭難。樫野崎で1890年9月18日沖合40mで座礁難破。580名死亡。これに対して台風のなか村人の必死の救助活動、全国からの義捐金、丁重な墓碑設立。生存者69名をトルコに日本船での送還。沈没荷物の引き上げと返還。これに対しトルコは今に至るまで親日国となる。以来、トルコ駐日大使は赴任すると必ず樫野崎を訪問。日本の温かい援助にいまだに感謝しP5211378rvsd-c.jpgていることを元駐日大使ウムットアルク氏から直接伺った。関係する著書も頂き大切に蔵書している。その地を訪れたことに感慨を覚える。
大地の故郷を訪れる
子供のころの育った海や、神社や、通った学校、駅や、町並み、勇壮な祭りの風景などは懐かしい。幼い頃の遠い思い出には甘酸っぱい記憶が付きまとう。友人や、知人との一瞬の遠いどんな風景も忘れられない。ましてや父母への思いは自然に涙が誘われる。山川草木の全てに思い出が詰まっている。しかしどんなに饒舌に語ってもこの思いは伝えることができない。故郷にいて次第に燃えるような想と裏腹にのしかかる高ぶる感情に無口になる。優しく迎えてくれる故郷は自分の今に何かを投げかける。あの風景も、このimage (45)d.jpg風景もかっての自分の部分だった。時間と共にセピア色にあせていくことなど決してない。故郷を持つ人は最後に帰るところがあるのだから。故郷を離れるときに無口になったSさんの心は痛いほど理解できる。来なければよかったと思うほどに。
5月22日(月)快晴。暑い。帰宅日
コース;(宇久井。休暇村~松阪間 137k)
朝食7時――宿8時発ー獅子岩8時50分(本当にライオンに見えるから驚く)――尾鷲道の駅。海山。9時50分――松阪駅着11時(レンタカー返し、荷物を観光案内所預け1個200円)切符購入。(ジパング購入手続き)――昼食「山作」 (明治操業。甘党の店、赤飯、ぜんざい、さわ餅)――13時15分松阪駅周辺散策(本居宣長碑 樹敬寺構内にあるらしい)――JR松阪13時45分発(みえ13号)――名古屋15時06分着、部分解散(新横浜駅最終解散)。
熊野灘を右に松阪に至る
松阪では、観光案内所ですべての荷物を預け、市内を散策昼食。安くてうまい。城下町でおっとりしている雰囲気。住よさそうなこんな町での生活を思う。JR紀伊本線は2両連結。単線。それなのに指定席がある。もちろんガラガラだが。沿線に明るいみかんの畑。前に海。遠く山波。ここなら佐藤春夫の歌は生まれる。
全体メモ
  • 費用概算 一人、約7万円+昼食代+入場料等。
    内訳;一泊1万円×4泊=4万円(宿泊は全員費用を全員で割る)。JR往復1万7千円 レンタカー1日2万円×5日10万円で(一人1万円)。
  • 持ち物;
    JRジパング割引切符購入の身分証と手帳。雨具(多雨量の大台ケ原。雨具必携、(雨中行動あり、着替え、ザックカバー、スパッツ、手袋)第一日昼食弁当。非常食1食。菓子類。水筒1リットル。杖、洗面具、タオル、多めの常備薬、医薬品、車酔い止め薬、懐中電灯、笛、保健証コピー、携帯(充電器)、登山中以外ば傘使用可、日焼け止め、登山靴(履き替え用の靴持参可能)登山中の小型ザック、この実施計画表、参加者連絡表(当日配布)5月19日の西大台ケ原コース入山時の身分証。
  • 担当;
    • 全体リーダー;勝巳、才美(全体計画、全体記録等)。
    • 南紀リーダー;達也、茂子(南紀詳細計画、南紀行程記録)。
    • サブリーダー;一朗(道順経路、車両運転、レンタカー対応)。
    • サブリーダー;憲治、貞子(全体行動。会計、日別座席指定)。
    • ブログ掲載用写真担当;亮子。

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