No.346 熊野参詣道「小辺路」 (2016.9.9~14)

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1947 (5).JPG総括;勝巳
山村を訪ね、自然豊かな峠を越え山深い紀伊半島の脊梁を縦断する全行程の山中はほとんど行きかう登山者に会うことはなかった。手入れもされていなく危険個所もある。特に急斜面の崖崩れをトラバースするときには、30cmにも満たない僅かな足場を慎重に渡らなければ、眼も眩む崖下に道ともども崩れ落ちてしまう。所によって大雨の後の為に特に注意が必要だった。もとより健脚向き。雨天覚悟の計画であるが。それでももう一度行きたい山旅である。

荷物は出来るだけ別便で車で先に送る方法を取ったので、計画は複雑になったがその分多少楽をした。加えて、温泉を含むいい宿を6か月前から予約したことが高齢者である全員が怪我もなく歩けた大きな理由の一つであるが、今回の旅の成功は、玉置氏の献身的な協力によるところが大きい。健ハイで2005年の熊野古道を訪れた時にもお世話になったが、それ以上にお世話になった。自分の車をわざわざ東京から前日までに現地に運び、更に十津川の自宅まで取りに行き、土地勘のない我々にもっとも適したコースを案内してくれ、自分は、コースの一部を省略までして私たちの便を図り、最後に全員を乗せてJR駅まで送迎してくれた。一同、誠に感謝に耐えない。その上この旅を契機に健ハイに入会した、心強い仲間が増えた。
CIMG9830.JPG小辺路を歩くという事
熊野参詣道はもとより宗教色の強い道であり、信仰がもたらす純真な願いと、救いを求める道である。遥かに霞む歴史の中で人々はこの道を通って素直に仏や、神にすがってきたのであろう。神社や仏閣がない時代にすでに、大自然対象の信仰がこの道の始まりだった。大いなる森と、未知の山岳、そこを通る複雑な細々とした踏破困難な山道。たいそうな荷物と同行する時の皇族方を含む権威者はここは通らず、多くは整備された容易な中辺路を通った。小辺路は庶民の深い信仰の道であり、困難を伴う、追われ行くものの道だった。幕末の天誅組の騒動でも倒幕決起の兵は紀州藩兵にこの道を追われたし、明治22年の大水害で全村移住する際も村人はここを通った。村の災害復旧は絶望的となり、640世帯、2600人が新天地を求めて、生活用具一切を背負い北海道を目指したのもこの道だ。旗を立て、幼子を抱え、故郷十津川を見納める伯母子峠では振り返り嗚咽し、大股から高野山に至りなんと神戸まで歩き船で小樽へ。そこから石狩川の未踏の原野に踏み込んだのだ。周辺の歴史から見れば、明治22年等つい最近の事である。この道は人々の凄惨な物語を秘めた険しい道でもあった。いくつも超える名もなき峠は誰に知るべくもなき物語を蔵しているに違いない。途中の人家の石垣跡や、旅籠やお茶屋の跡、浄財を出し合って造った石畳も僅かに残り、所どころにある石碑は思ったより小さく質素で見落としてしまう。中辺路などの他の熊野古道は、手入れし立派に修復、復元され、誰でもが歩ける観光道になったが、ベンチすらない小辺路は依然として自然が成すままに確かな自己主張をしている。ここは、自然に一喜一憂し振り回される人生を送った山の民の道なのだ。この道をどう歩けば、古の精神を称え、そして応えられるのか。ただひたすら足元を見つめ、至らなかった自分を責めながら歩く道か、思いを、此の長く厳しい時を過ごしてきた山村の人々の生活に浸して歩く道か。いずれにせよ熊野は、住む平野とてない辺境の地であることは現在も変わらない。実直に信仰を求めて辿り行くのもいい。だが、それ以外の歩き方を否定するのはもともとのこの道の生い立ちを思えば正しくない。加えて、当初の旧道は林業が盛んになって大きく変容している。宗教色に関係なく高野山から熊野神社までの長い道のりの周辺の自然と人生を考えるのも小辺路の持つ魅力だ。そこに、小さな集落があり、マツタケや高野マキを育て、僅かな棚田で米を育てている。廃村の墓石や、石碑を巡るのもいい。猪の掘った溝に足をとられるのもいい。獣道の消える森奥を思うのもいい。古びた橋から砕け散る清流を眺めるのもいい。この細い道をどうやって荷をつけた馬が通ったかを想像するのもいい。谷沿いの湧水にのどを潤すのもいい。広大な杉やヒノキの巨木の植林の紫の山を眺めるのもいい。自然林の峠の風に吹かれほっと一息するのもいい。ガードCIMG9877.JPGレールもない林道を辿って、深山の滝と巨石と清流に出会うのもいい。深い森の道の冷気を全身に受けるのもいい。運よく出会った村人がいたら、雪の峠越えや、緊張と悠然の生活を親切に教えてくれるだろう。それが小辺路だ。あえて言えば、此の高野山から、熊野に至る南北の道はただの宗教上の道と考えてはならない。十津川の村人は、北のはずれの高野山への関心が思ったほど高くない。それはこの地が神道を信仰するという理由だけではないはずだ。この道は、自分たちの生きる辛苦の道だ。そこには、学問としての高邁な権力の象徴である大伽藍への儚い抵抗すら感じる。どうしてそんな道に定まったコースなどがあろうか。
小辺路は、自由に好きに歩けばいい。山の民の生活に深い敬意を表しながら。 参加者; 合計6名  (男3名。女3名)
勝巳(リーダー、全体記録)、才美、憲治(サブリーダー、会計)、貞子、亮子(十津川探訪記録)、一朗(現地サブリーダー)。 実施日;2016年9月9日(金)~9月14日(水) 5泊6日。
持ち物(軽く);一般登山用品、(杖、雨具、懐中電灯、医薬品、非常食、水筒1リットル、軍手、ジパング購入書類。等(他に携帯電源、熱中症対策、蜂等の虫よけ日よけ注意)雨は確実準備必要、傘は山中以外有効。
費用;6万円5000円程度   宿泊5万。交通費等15000円。
第一日9月9日(金)晴れ、曇り  (横浜~高野山)
    集合9月9日(金)新横浜発ひかり461号7時22分発に各自乗車。一朗さんは高野山の宿坊で14時に合流。
    新横浜発ひかり461号7時22分発――新大阪着10時03分――難波10時27分着――南海高野線急行橋本着11時38分――極楽橋着12時57分――ケーブルカー高野山駅着13時10分――境内専用バス――高野山千手院バス停着。
    昼食「花菱」13時20分――宿坊14時30分――金剛峰寺――宿坊帰着16時。 宿泊;金剛三味院(こんごうさんまいいん)世界遺産の寺院宿坊。国宝あり。0736-56-3838 3部屋2人使用 泊12000円。
    この宿坊では絶対安全だからと外からカギはかからない。
    高野山の金剛峰寺管轄外で唯一世界遺産に認定されている。1211年に創建され大火の被害もなく今日に伝えられている。境内の多宝塔は国宝で更に校倉つくりの重要文化財の経堂もある。院内の石楠花は天然記念物。あまたある高野山の宿坊でもこれほどの所はない。要は、恐ろしいほどの由緒正しい宿坊なのだ。なのに早朝6時30分からの住職のお勤めへの参加は案外自由である。住職以下15人ほどが管理しているようだが点在する大きな建物は森閑としている。後ろは森が深く人家は無い。もちろん、食事は精進料理で値段に比例していないが部屋や風呂など設備は期待を裏切らない。全体的にのんびりした雰囲気だ。これで商売が成り立つのかと余計な心配をする。参加者の一部は住職の勤行を逃げ出し古い神社、戦友会の石碑の多い宿坊が連なる早朝の街を散歩する。古くから信仰を集め、これだけの宗教施設が連担する光景はここまでのたどり着く深山を思えば驚嘆の値する。それにしても、横浜から高野山は遠い。知らない路線で慣れない乗り換えを幾度も繰り返し、ケーブルに乗り、専用バスでやっと辿り着く。山に登る前に、此処までで疲れ果てる。山上にある、5か所以上のバス停、数千の住民、大学も存在する広大な寺院群。1200年も前にこの寺院群を作った空海とはどんな人かと改めて思う。昨日到着後すぐに散策した金剛峰寺は巨大な寺院で秀吉に切腹させられた養子の部屋などがあり誠に歴史そのものである。そんな寺がゴロゴロしてるのが高野山だ。昼食の「花菱」は綺麗で高野山に来た感じが十分にする旨い料理屋だ。多少高いが、その価値はある。お経の始まりは灯篭の光、終わりごろに自然の太陽光。その変化の中に御仏がおわす。お勤めが終わって阿弥陀様を拝観。今日の長い道のりを思う。
第二日9月10日(土)晴れ  徒歩約8時間(高野山~大股)
    8時15分宿発――大滝口女人堂跡8時30分――薄峠(すすきとうげ)9時15分――丁石9時50分――赤い鉄橋10時15分――大滝集落10時40分(高野マキ植林の森。民家の庭にある公衆トイレ、東屋での休憩、水補給)――高野竜神スカイライン合流地点11時40分――野迫川分岐12時――水ケ峰分岐12時40分――休業の鶴姫レストラン立ち寄りを省略――林道タイノ原線――東屋14時――今西辻14時30分――平辻15時――大股バス停着16時(3km離れた野迫川温泉「ホテルのせ川」の送迎)。
    宿泊;「ホテルのせ川」0747?38?0011 3部屋2人使用弁当付泊10370円。
    夕食は鴨鍋。量が多すぎて半分も食べられない。温泉から見る裏の清流は目にまぶしい。
    昼食弁当は、出発前に宿より徒歩5分のコンビニで購入。途中レストランがあるとの観光協会作成パンフレットの記載により、簡単な非常食のみの購入としたが、そんなものは、現在営業していないことが判明。9月の土曜日の晴天で、車の交通量の多い幹線道路際にある観光地のレストランなのにである。結果的に粗末な昼食となったが、たまには健康にいい。途中、合流する国道のスカイライン歩きは炎暑の行軍、暑さが応える。なにしろ、5日分の全ての荷物を全員が持っているのだ。車が通るたびに便乗させてくれとはかない夢を見るがもとよりダメ。あんな高い山の中に家があると驚いてみていた場所に道が通じていく。大滝の集落は山上の風景が美しい数件の村である。半分は空家のように人影はない。周囲の高野マキの植林に出会う。昨日高野山で、マキの枝葉を仏様に備えるものとして売っていたのはここから出荷されたものだろう。親切なおばさんが、水と休憩場所を提供してくれた。聞けば、定年後、御主人とこの地に移住し、高野マキの植樹をして生計を立てているとのこと。柿や、栗などはあるがマキの木を糧にするなどやはりここははるばる遠くに来ている。
第三日9月11日(日) 快晴  徒歩8時間(大股~伯母子峠~五百瀬)
    ホテルのせ川発8時――全員大股まで宿の送迎車――大股バス停で予約タクシーを待ち登山組と分かれ8時15分。
    フロントに確約していた宿から伯母子峠までのタクシーは「目的地までいけません。間違って案内しました」とフロントの平謝りのため、大幅な計画変更。深山の林道の状況は宿泊先での確認だけでは不十分で、森林組合に念のために重ねて問い合わせることが必要であると痛感。フロントの担当者は、小辺路など歩いてもいないようだ。この結果、十津川探訪組は貸し切り3万円のタクシーで当初の伯母子峠に向かわず、五百瀬に行く。そこで宿泊する民宿の好意による車で十津川村のほぼ全域を案内してもらう。
    1887 (2).JPG十津川村探訪コース コース;(観光タクシー、民宿主人の案内等入れて9時間)。
      参加者;才美、貞子、亮子(この項記録)。
      大股バス停8時05分発 十津川温泉にある三光タクシー(運転手山本さん)――谷瀬の吊り橋 9時30分~10時15分¬――伯母子峠登山口立ち寄り写真だけ撮り、農家民宿「山本」11時着。宿にて休憩、周辺散策、昼食後――14時発宿のご主人の運転で「笹の滝」「湯泉地温泉 滝の湯」に連れていってもらう。――笹の滝14時45分~15時10分――「湯泉地温泉 滝の湯」15時50分~16時40分――民宿「山本」17時着。滝の湯入浴料一人600円は民宿山本さんのご厚意を受ける。
      「谷瀬の吊り橋」は、長さ297m、高さ54m。生活道路として公道(村道)の認可を受けたものの中で日本で一番長い鉄線の吊り橋。木の板の上を歩くと、時々ミシッときしみ、下に沈む。もし、これが割れたら!?と思うと、生きた心地がしない。また、板の隙間から見える川原は遥か下、経験のない程下にある。下を見ては足がすくんで前にいけないので、真っ直ぐ前だけを見て必死に渡りきる。人は何故怖い思いをしたがるのか!?この橋は、マツタケ吊り橋。橋を渡った奥にある村人たちは、マツタケ山を持っていてみんなマツタケ御殿の生活。此の吊り橋もそこの村人たちの費用で造ったそうだ。吊り橋の往復を終えてホッとしたところで、橋の見える店でお茶をする。緊張の後は、アイスがおいしい!!
      1810 (2).JPGタクシーの運転手山本さんから、地元の話しも沢山聞くことができた。十津川村は96%が急峻な山岳地帯、平地は川やダムなどすべてを含んでも4%に満たない。大きさは一村で東京23区に匹敵する。5年前の災害の爪痕が残り復旧工事が継続し、いまだに行方不明の人が6人もいると知り、山村での災害の非情さを改めて思う。また町の施策で森林作業員を獲得するために10件の家を建て都会からの応募者を迎えたが、今では全員が帰ってしまった。朝3時に起きる森林作業の過酷な労働やけが人の続出に耐えられなかったのだろう。もっともどんなベテランでも森林作業には怪我がつきものなのだが。降り際に、タクシーの運転手が、観光バスを使って奈良にでも案内に出向くとのこと。いずれお世話になりたい。
      ちなみにタクシー運転手の山本さんは、農家民宿「山本」とは親戚でもなんでもなく、また、民宿の「山本」も屋号で、本当の名字は、中南(なかみなみ)さんと言う。そしてご主人は、ナント村会議長さんでした!(恐れ多い方にご案内いただきました)。
      1887 (1).JPG「笹の滝」はガードレールもない、細い林道を対向車がないことを祈りながら、果てしなく奥に入るその先にある滝である。車から降りて、少し歩く。日本の滝百選にも選定されている滝で、落差32m。水量も多く、迫力満点。滝壺に落ちた水は、大きな石の間をくぐりながら次々に流れていく。深いところはエメラルドグリーン。周りの景色は、清風の中、山奥そのもの。多分、どの季節に来ても、満足のはず。
      宿のご主人から是非とおすすめいただいたのが、70段の階段を下りる谷底の「湯泉地温泉 滝の湯」。露天風呂は川の側にあり、谷音を満喫。リラックスできた。 宿に戻って、周辺散策。7件の民家、薬師堂、ご先祖様の墓地、畑や田んぼ。刈りいれたコメのはざかけ、烏骨鶏の鳴き声、まことにのどかな風景。ピンクの芙蓉が沢山咲いていた。
    伯母子峠踏破コース(勝巳、憲治、一朗)
      タクシーでの十津川探報組に登山組の不要な荷物を託して、登山口の大股のバス停から伯母子峠越えに向かう。
      大股バス停8時05分発――大股集落を離れるとすぐ急な登り道――萱小屋跡(10人は宿泊可能に整頓され、燃料の薪まで積まれた小屋が有り、水も小屋の裏にある)9時15分――緑陰の気持ちの良い道。ただし、蝿が多い。他の虫は少ないのになぜか蝿はコース全てにわたって五月蝿くまとわりつく――急な登り坂を越えてやっと桧峠(ひのきとうげ)10時着30分――此のあたりから全コースに9853 (1).JPGわたり猪の楽園らしくほとんどの道端がほじくり返されている――伯母子峠分岐(おばことうげぶんき)11時15分着――伯母子峠に直行する参詣道から外れ、伯母子山1344m山頂に11時40分着。全山緑の音もない360度の展望。周囲全てが紫の遠い山波。改めて紀伊半島の山の深さを知る――伯母子峠12時20分発――峠から先は、悪路。がけが崩れていたら巻き道を辿れとの表示があるが、簡単な巻き道ではない、幸い、何とか崖を横切れたが崩れていたら倍以上に時間は確実にかかった――峠からは長い下り道、自然林を含む森林の中――上西家跡13時30分――水ケ元茶屋跡(水有)14時40分――長い山腹を巻く林間のくだり道――待平屋敷跡15時50分――疲れた体には急こう配のやな砂利と、石畳の道――三田谷橋着16時15分――宿の迎え16時30分(三浦口バス停まではさらに徒歩15分はかかる)。
      宿へは予定より遅れていたため一朗さんが先行して三田谷到着を連絡。
      途中での携帯はほとんどつながらない。民宿の周辺は7件。古い墓はほとんど土葬とのこと。
      宿泊;民宿(山本)186-0746-67-0076 三浦口までの送迎 泊8000円昼弁当付 現金払い3部屋6人。
      9882 (2).JPG実に手の込んだ丁寧な、お膳いっぱいの多種類の料理。庭で飼っている烏骨鶏の卵は美味。冷凍食品などもちろんない。最新のトイレ設備も含めて清潔で農家民宿の鏡のようなところだ。宿のご夫妻も人柄がよく、実に機転がきく。大きな都会のホテルの支配人でも十分勤まる才覚の方々だった。宿が楽しい。出来ればもう一晩泊まりたかった。此のあたりのお茶は自家製で家ごとにそれぞれ味が異なるのだそうだ。夜は漆黒の闇。自分の手すら見えない。眼前の渓は、先の災害時に発生した土砂の捨て場としていまも造成が続く谷。すでに忘れられた災害もこの山村にとっては決して過去のものではない。
      翌日、出発前に、天日干しのコメを分けてもらうことにした。自分達が食べる分しかないのに、気持ちよく分けてくれた。これから1か月も天日に干すコメは期待を裏切らないだろう。
      吊り橋を渡っていたら、さっき送迎してくれた宿の奥さんが、小さく見える車から手を振っていた。全員が立ちどまり、声も届かないのに、ありがとうと何度も叫んだ。本当の民宿に泊まった。
9861 (1).JPG第四日9月12日(月)曇り後夜豪雨徒歩7時間(五百瀬・三浦口ーー十津川温泉)
    宿発8時――(宿の送迎)――三浦口バス停(五百瀬いもせ)船渡橋8時10分発――吉村家跡8時40分――三十丁の水(豊かな湧いている飲み水)9時40分――三浦峠11時これより長い下り道――古矢倉跡12時10分――出店跡12時30分――旧道、五輪の塔13時15分――墓石――矢倉観音堂14時――西中バス停へ続くアスファルトの道(下山口)14時30分着(宿の送迎ここまであり。今回も一朗さんに先行してもらい送迎場所の変更連絡をする)――送迎車に6人全員何とか乗車――十津川温泉「ゑびす荘」15時着。
    一朗さんの自宅まで宿の車で送迎後、一朗さんが車を回送して宿に駐車し明日に備える。
    宿泊;十津川温泉旅館「ゑびす荘」0746?64?0019弁当込 泊10000円3部屋6人。
    五百瀬は十津川の材木出荷の中心地だったが、今や面影のない寂れようだ。石垣のみを残して廃屋となった民家跡が侘しい。棚田の三浦集落の登り口から一汗かいたころにある吉村家跡には巨大な杉の防風林が残っている。たぶん、山林地主の家だったのだろう。此のあたりに来ると、随分パンフレットの時間記録と実感が違ってくる。とっくについているはずなのに、目的地に未だついていない。疲れたからか、記録時間がいい加減なのか。三浦峠までなかなか着かないので、休憩にしたら、そのすぐ上が峠だったというほどの記録と実感の違いなのだ。さらに驚くことに、9867 (2).JPG峠に車が通って行ったのには唖然とした。立派な林道が峠で交差していて、作業用の大型トラックも何台か駐車している。わかっていれば、三浦口からこの林道を車で上がればもっと余裕のある登山ができたものを。と残念がるが後の祭りだ。峠の東屋で降ってきた小雨に対応して各人雨具をつける。雨は程なくやんで静かな雨後の緑に包まれる。やがて薄暗い陰気な谷沿いの古矢倉跡に着く。ここは、悪い坊主が居て旅人を殺して、金品を巻き上げていた伝説があるところ。その目的が合戦に出て手柄を立てるために金銭が必要だったからとなっているのが「何とも人間らしい」伝説である。 ここから先には、かっての旅籠の跡が多い。水もあり、旅程的にも適地だったろう。どんな人が、泊まったのかは知る由もないが、高野山から熊野に参詣に行く遠くからの団体もいたに違いない。方言も飛びかわしたのだろう。その割には、この古くから通われたとする道に、石碑や、地蔵様や観音堂の数は思ったよりも少く、あっても貧弱で、見逃しかねないほどのものだ。現代でこそ有名なこの参詣道のこの風景は何かあったのだろうか。明治の初めの仏教から、神道への変動の波の中で消え去ってしまったのか。
    今まで越えてきたどこの峠もそうだが、最後の自動車道に出る下りはいずれもきつい。高度計を何度も見て慰める。雨の石畳も崩れていると厄介だ。やっと大きな道が見え沢の音が聞こえてきた。今日はこれで終わりとびっしょりの汗の中満足感を味あう。やっと何とか着いた。
9882 (1).JPG第五日9月13日(火)雨  (豪雨で計画変更~玉置神社~湯の峰温泉)
    十津川温泉「ゑびす荘」発8時30分――  一朗家に全員の荷物を置く――玉置神社9時30分――10時30分十津川村の森林組合の名産品売り場(一朗宅の裏)で土産買い物――雨の中熊野川沿いの国道を行く――八木尾バス停――湯の峰温泉着13時30分――新宮で昼食後――湯の峰温泉着15時30分――周辺散策。
    宿泊;湯の峰温泉。「小栗屋」0735?42?0103 3部屋6人 泊8000円。
    ここの温泉水で沸かしたコーヒーは絶品。それもどういう訳かインスタントコーヒーがいい。
    奈良らしく茶がゆが出る。正式の祭りごとでは必ず出されるとのこと。
    夜陰、山の豪雨は寝ていてもそれとはっきりわかり渓谷の激流を思わせる。
    玉置神社までの道は、舗装こそされているが、かなりな山道だ。その上雨。久しぶりに車に酔ってしまった。神社の襖絵を500円で拝観。愛想の悪い年配の神官がいたが理由はわからない。神社には、教育勅語が飾られ賛同する解説文すら準備されていた。山中の廃村で見た、一列の軍人墓地が目に浮かぶ。こんな山の中にも徴兵令状が来て、兵士として戦地に赴き、こんな形で祖国に帰ってきた人がいるのだ。その人たちは教育勅語が飾られる風景をどう見ているのだろうか。
    玉置神社の裏手の巨大な杉は樹齢3000年とされている。その形は、異様。雨に煙る中で不思議な力を示している。やたらにクマ注意の看板が多いが本当に出るかもしれない。雰囲気だ。朝早く鹿の鳴き声。途中散在する畑は全て動物を避ける電気鉄線で囲まれている。
    9886.JPG湯の峰温泉は93度の源泉から薬効豊かな温泉があふれ出て、1800年前の昔から今につながる日本一古い温泉とされている。何しろ、歴代上皇が熊野行幸の際利用したという格式ある温泉である。小栗判官の伝説の民宿に宿泊。宿いっぱいに、判官の記録があふれている。83歳の元中学校校長の民宿の主が、喜んで判官の研究結果を話してくれる。神奈川県戸塚や、藤沢の場面が出てきてなんだか身近に感じる話だ。川底にある小さな「つぼ湯」は日に何度も色を変える不思議な温泉で特に霊験があるらしい。健ハイでは2005年10月尾鷲から八鬼山越えと小雲取越えの際に川湯温泉から湯の峰温泉に至り、新宮を目指したことがある。湯の峰温泉での卵をゆでる風景など懐かしい記憶だ。みんな若かったことを思い出した。
第六日9月14日(水)晴れ (湯の峰温泉~紀伊田辺~新大阪~帰宅)
    一朗車で全員が紀伊田辺へ8時発――紀伊田辺着9時50分着――JR切符購入――たまたま列車事故で15分程度遅れていたために予定の列車の1本前に乗車できる。10時31分発黒潮13号特急新大阪行(紀伊田辺からの特急列車は進行方向の左は穏やかな海。右は豊かなみかん畑。なんと有名な有田のみかんである。)――新大阪着で弁当、お土産購入後、始発ひかりのガラガラの自由席でよく眠れた――新横浜着15時解散。

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