西四国秘境旅行記録 (5月28日~6月3日)(6泊7日)

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  • 記録 勝巳
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      観光地を点と点で行くだけの商業ツアーでなく、多少の困難覚悟で丁寧に地を這うような辺境への旅。海岸線の小さな漁村や峠を越え山村をいく。総走行距離約1,100?
      生涯、再び訪れることはできないだろう。と勇んで出かけたが、やっぱり四国は大きい。今こうして地図を前にして、見落としてしまった地域や、訪れたかった岬や集落、断崖の道や峠を改めて眺めている。6か月にわたる詳細な情報収集や全域の地図の購入、観光協会への事前調査も、長く困難な旅の中で、体力も気力もそがれ、ひれ伏すことがあった。
      それでも見方で、この歳でこれだけの旅に企画、挑戦した勇気は誉めていい。 随分辺鄙な秘境とも思われるところにまで踏み入った。これはどう見ても物好き、変人の領域。全員無事に帰省できたのも、参加者の相互協力と、なによりも梅雨直前であるにもかかわらず、天気も比較的安定し、交通事情も「これが四国か」と思われるほど高速自動車道などが整備されていたことによる。過去のジャリ道とすれ違いもできない道を知る者にとっては隔世の感があったが。それらが複合的に作用してこの旅だった。
      数日は疲れが出て記録が遅れたが、それだけ、内容豊かな旅と言えるかもしれない。
  • 参加者と分担
      勝巳リーダー。才美(計画策定。宿泊。記録)。
      憲治。貞子(運転。走行精査。会計)。
      善右衛門。恵美子(運転、レンタカー)
  • 5月28日(木)晴走行7時間程度260Km
    • 集合;羽田行バス停6時10分発に乗車するよう集合――空港着6時55分
      到着後(航空券手続き、朝食、参加費集金、関係資料配布、確認事項打合わせ等)
      バス6時10分発――羽田空港着6時55分(JAL475便7時50分出発)――高松空港着(9時05分)――レンタカー空港発9時30時――満濃池(早めの昼食)――大歩危――(途中道路工事で一時通行止め)――剣山麓の奥祖谷かずら橋――大歩危に戻る32号線――大豊インター――高知自動車道――須崎――山里温泉17時
  • 満濃池(まんのういけ)
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      香川県は日照時間が日本一。加えて、山低く、河川も少ないため、灌漑用水はもっぱらため池に頼り、その数16,000か所。その中で満濃池は貯水量1540万立方で県内一。その上、灌漑用ため池としては日本一。歴史は古い。何しろいきなり大宝年間(701年~703年)にわき水をためて最初のため池ができたことから始まるのだから。
      当時は灌漑用水の準備は国の義務的国営事業で、都から派遣された役人が工事進行を担当する。工事は決壊したり、修復したりの苦労の連続。朝廷も困り果て、この難事業に「空海」を招請したのが821年。僅か4人のお供を連れ讃岐にのりこんだ。もともと空海は讃岐の生まれ。当代第一の学者で、郷里での尊敬は天を衝く。大工事で、人も集まらない今までと違い、空海の名をしたって多くの農民が集まり、なんと3か月で竣工してしまう。もちろん、唐帰りの最新技術を持っていたのだろうが、その指導力は人力だけが頼りの状況を考えると想像もできない。この広大な池と言うより湖を前にして、改めて空海の恐ろしいまでの天才ぶりを実感する。
      技術的には当時は「皿池」と言う四方に堤防を作る方法でため池を作っていたが、空海は、金倉川をせき止め本格的なダム構築をした。また、築堤は力を分散するアーチ式であり洪水対応では岩盤を開削して堤防の決壊を防ぐ方法をとり、護岸工事も水たたきを設けて土砂の崩壊を防いだ。いずれも日本初のもので、土木工学的な価値が高い。その他にも、貯めてある水をどのように配水すれば、公平で効率が良い(大きな池は浅い所と深いところで水温が異なり取水方法で稲作に影響が出る)かを工夫するなど随所にその功績がある。権力闘争に明け暮れる坊さんが多い中、この技術を短期に、確実に実践し成果を残したのは、やはり空海はただものではない。
      その後、何度かの天災の為の決壊でせっかくの空海の努力もむなしく池は荒れ放題。枯れた池の中に集落ができる始末。後の藩政時代には30年に一度の大工事を農民の大きな負担のもとで行っていた。昭和34年嵩上げ工事などで今の姿になったが、空海の時から1200年が経過していた。
      満濃池には伝説がある。龍が住み天狗がこれをさらって近江の国迄持ち去ったという。しかし、なんといっても空海の実話は凄まじい。民衆の力を瞬時にこれだけ集めることは朝廷にとっても侮りがたい人物だったはずだ。満濃池にはこの驚愕の事実がありそれは伝説をはるかに超えている。
      満々として、森閑な森に囲まれている青き湖を見ると、その人物の偉大さが伝わってくる。空海を知るのにこの場所を超えるものはない。
  • 奥祖谷二重かずら橋(観光バスが通う有名な「かずら橋」ではない。
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      場所?説明不能である。その遠さは半端ではない。「大歩危」「京上」「剣山」の国土地理院発行の地図を3枚横に並べてやっと名前が出てくる。そこに至る道は観光バスが行く一般の「かずら橋」まではともかく、その先は道路予定地。谷底を走る車からは、見上げても山の斜面に立てかけてあるように点在する集落は安易には見えない。激しいカーブに酔いながら唖然として眺め続けるしかない。だいたい、この急峻な谷をどうやって対岸に渡るのだ。その上、雲上の村に行く道はあるのか。なんであそこに人が住むのか、どんな日常があるのか、台風や雪は、土砂崩れはどうするのか、学校や、病院はどうやって通うのか、平家の落ち武者だってこんなに奥には住みたくないはずだ。車があって便利になったというのすら欺瞞に思える。今だって便利なはずがない。行けども行けども狭い絶壁沿いの道がくねり、対向車が来たらどうしたらいいのかと不安が募る。距離は近いのに、道は限りなく遠い。そんなところに「奥祖谷の二重かずら橋」はある。大げさとお思いなら是非行ってもらいたい。その価値は十分ある。周辺は、地図上は等高線と深い谷の表記だけ。人家は谷沿いに豆粒のように僅かにへばりついているのがやっと見いだせるのみだ。ほかに東祖谷と奥祖谷には正真正銘なにもない。過疎、深山と簡単に言っては現地実情を表現しきれない。
      村のおばあさんが私たちが来たのであわてて切符売り場の小屋に入る。520円。此のかずら橋のパンフレットをというのが間違い。はなから、そんなものあるはずがない。
      yaen5a.jpgつり橋はサルナシなどの葛を使うが安全の為中の鋼線に巻き付けている。一人がやっと渡れる。揺れる足元は「さな木」の隙間からみて、渓谷を空中に歩むがごとくである。2重のかずら橋は、全く商売気がなく何度でも渡れる。その上、「野猿」と言う、谷渡りの移動小屋があってロープを自分で引き滑車がカラカラ回って対岸に至る。なんだか、源平の時代の様だ。
      たどり着いた奥かずら橋もいいが、ここまでの道は何とも言えない。地をなめるように行く秘境への道にこそ、この旅が求める代えがたい深い味わいがある。 (第1泊)「山里温泉」0889-46-00293 部屋2食1万
      高速下車20分  高知県須崎市上分乙1336
      まだか、まだかの行き止まり一軒家。大きな愛嬌のある犬の盛大な出迎え。
      谷川を背にし冷泉を蒔きで沸かした温泉。宿泊者我々だけ。料理の量は多い。
      精一杯の歓待で、宿の主人が座椅子を持ち込み食事中話し続ける。思ったより 高い額だったが須崎の山中での第一泊として今後の旅に相応しい。
  • 5月29日(金)晴走行5時間程度 130Km 四万十川周遊。
      須崎山里温泉8時発――窪川――土佐街道――(沈下橋)――江川崎――(沈下橋の連続)――(予約不要やかた船60分2千円毎時出発0880-38-2000四万十市三里江川崎。中村へ向かい40分――中村市内(幸徳秋水の墓。一条城址)――夕外食(各自自由)――タクシーで一条城址――中村駅近(泊)。
      山里温泉発8時。サングラスを宿に忘れたが、途中で引き返そうとしているところへわれわれの宿泊の仕事が終わったので早速町に帰る宿の車に出会う。親切にも戻って取ってきてくれたが、これから留守になる宿が心配だ。
      窪川から快適に高知自動車道で四万十中央へ。カーナビが古いのか、道が新しすぎるのか(両方?)道路の表示はない。窪川から、わかり難い四万十川の入り口に注意して上流に向かうこと20分。沈下橋訪問の第一号「一斗俵」(いっとひょう)に至る。周囲は畑ばかりで見事に何もなくお地蔵さんが微笑んでいるばかりだ。そのはずだ。橋は隣村への生活道路で観光用ではないのだから。今更だが静かだ。水は空を映して青い。流れはゆったりと時間を感じさせない。トンボが飛び川面を小魚が走る。人は誰もいない。忘れたころ軽自動車が老人を載せてゆっくりと欄干の無い橋を渡ってきた。そのあいだ、人は橋の隅に立って川の水を眺めている。遠く白い雲が浮かんでいる。川面にそよ風が渡る。ただそれだけ。忘れていた少年時代の風景がある贅沢。
      沈下橋の連続。このほかの訪問先は「上岡」「芽吹手」三島」「ひろせ」「半家」「中半家」「長生」「岩間」「勝間」「佐田」「三里」等。いずれも甲乙つけがたい美しい風景に溶け込んだ名橋だ。周辺の環境はこの世離れしている。出来れば、このままほったらかしておいてもらいたい景色がこれでもかこれでもかと続いている。四万十川の核心部だ。
      四万十川は四国カルストの東南「不入山」1336mに源流があるがその調査も昭和62年とごく最近だ。この山は名前からして低山でも四国の難峰である。四万十川は五市町村に大切に守られ平成21年、「重要文化的景観」に選ばれている。言うまでもない清流。すべての沈下橋は飾り気がない。見方によってはただのコンクリの坊主橋だが、見方によっては感動がやまない風景を周囲に創りだす。その人の感性がこれほど問われる橋の景色も珍しい。河口の沈下橋は土佐中村に近い「三里」。ここは遊覧船に乗ったが、いかにも四万十らしく予約も何もいらない。ポンポン蒸気のような和船の老船頭の無言がよく似合う。水面すれすれで見る流れは眠くなる。あくまでもたゆとく、悠然と流れ、空は高く、岸辺遥かに集落が固まっているが人煙は無い、風景も騒音もほとんど止まっている。水鳥が飛ぶ。トンボが抜いていく。舟側を過ぎゆく水音か。今まさに四万十川にいる。
  • 四万十川
      四国最長の川。日本最後の清流。この流域を訪ねるのが今回の旅の主要目的の一つだ。
      名前がいい。別名を「渡川」と言うがやっぱり四万十川がいい。その響きは素直に薫風をもたらす。流域には、四万十川時間があり、一日くらいの逍遥では全く足もとに及ばない。源流から太平洋まで、蛇行を繰り返す196Kmをリックを担いで歩きたい。生まれたままの青き流れと、広き空を友にして歩きたい。その価値のある川である。
  • 沈下橋
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      曲がりくねった川は原始の暴れ川の様相を彷彿させる。土佐湾からの湿った空気は年間2500ミリの多雨をもたらし、この地域に森林資源の恵みをもたらすが、反面治水は困難を極めたに違いない。どうせ橋をかけても一年もたたずに流されるのなら、洪水を素直に受けて、橋の上を流れてもらおうと、費用と効率の点からも欄干も作らず、構造も強固でない沈下橋を作った、でも、なくていい橋は一つもない。
      対岸に行く村人の命の橋だった。地図で詳細に観察すると見事なくらいに地理的な要衝の場所に造られている。最近、観光客が橋の上で住民の車といさかいもあるとのこと。観光客が謙虚さを忘れているためだ。この橋は住民の大切な生活の橋なのだから。
  • 土佐中村
      四万十市に改名しなんだか存在が遠くなってしまった。
      四万十川観光を中心に土佐の小京都と言われ、かっての城主の影響か大文字の送り火、一条祭りなどがある。ここは幸徳秋水が眠る土佐中村だ、明治44年大逆罪で死刑。戦前は、墓碑にすら鉄格子がはめられ監視された。現在は国家による捏造の典型とされている。しかし、権力による捏造で処刑された人は何を訴えればいいのか。処刑をした責任はだれが負ったのか。市街の正福寺に小さな古びた墓があった。
      なんと皮肉なことか検察庁のすぐ裏である。
      (第2泊)「ホテルクラウンヒルズ中村」0880-34-2811
      ツイン3部屋(狭い感じ) 一部屋2人で1万円。朝食のみ。
      高知県四万十市うやま383-6(中村駅徒歩3分)
      安いので我慢。どこにもあるビジネスホテル(夕食は各自自由外食、ホテル紹介の「ちか」美味くて安い。混んでいた)。
  • 5月30日(土)夜小雨走行6時間程度 200Km
      中村駅周辺8時発――321号――348号足摺スカイライン(唐人駄馬)――足摺岬展望台――ジョン万次郎生家――321号足摺サニーロード――321号――見残竜串――竜串観光汽船グラスボート0880-85-0037(40分)――321号――43号――43号――大堂海岸――柏島――43号――321号――大月――宿毛―御荘――56号――津島――37号――346号――遊子――外泊、泊、
  • 足摺岬
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      この岬は若いころ田宮虎彦の「足摺岬」で知った。人間のどうしようもない宿命、自殺の為に訪れた青年が知る、翻弄される弱いが誠実な人達。最果ての断崖の岬はどんなところかと想像した。当時松山からの道路も悪く旅館などもほとんどない海鳴りのする燈台の岬だった。今は土佐中村から新伊豆田の長いトンネルを抜け、海岸沿いを南下。椿ライン(足摺スカイライン)で岬に至る。岬は鰹で有名な土佐清水市に属し四国最南端。黒潮で洗われた花崗岩の岬は、亜熱帯植物で覆われ明らかに本州と林相が異なっている。椿の遊歩道から展望台へ。太古から黒潮が打ち寄せてきた断崖と、紺碧の海流に観光客が押し寄せる。あの青年が訪れた「足摺岬」はどこへ行ったのだ。
  • 唐人駄馬遺跡
      何とも変な気になる名前だ。足摺岬に行くスカイラインの途中にある。周辺は縄文早期(AD5000年)から弥生時代までの石器や土器が多出している。確かに傍で見ると巨石が組み合わされているように見える。中には、人為的に動かされた石もある為、日本にある巨石文化のストーンサークルかと夢を描きたてる。黒潮がぶつかる外海の海流に乗って流れ着いた古代人が足摺のような地の果てにどんな文化を創っていたのか、同時代の青森にある「三内丸山遺跡」との関係等壮大な夢に浸れる。ちなみに唐人とは異人で、巨石群は異人の仕業、駄馬とは広場の意味であり、後の人がそう思って名づけたのだろう。ここを地の果てとするのは、古代の実情に反する。むしろ黒潮が最初にぶつかる日本への開かれた入り口だったとこの石群を前にして思う。
  • ジョン万次郎生家
      ジョン万次郎の生家は、足摺から土佐清水港に向かう海岸線の寒村にある。村は鰹ぶしを作るにおいが漂う。いまでも万次郎が使った井戸があったり周囲は当時のままの中浜の道狭き突き当りに平成22年にひっそりと生家は復元されている。
      万次郎の偉大さは、遭難後の数奇で困難な運命を乗り越え、優れた能力を生かして帰国後、日本と外国の間に立ってその能力を駆使したことにある。それなのに、観光はともかく、万次郎は、日本の夜明けの並み居る人物に埋没されている。こんな小さな村の、こんな家の5人兄弟の少年がやがて歴史に登場するのかと生家の狭い庭に立ち尽くす。大海に翻弄された貧しい漁師の子の姿が目に浮かぶ。生家の場所を聞いたらその老人は不機嫌に振り向きもせず顎で示した。万次郎は今も寂しいそうだ。
  • 竜串。見残し
      見残しは、足摺岬から西へ、清水港、あしずり港を過ぎて千尋岬の先端にある。空海が、竜串は見たが、うっかり此処を見なかったのでその名がついたとのこと。そこらじゅうが奇岩、何しろ砂岩と、泥岩が荒波に気の遠くなるほどの年月浸食されてきた岬だから。後世の人が勝手につけた名前に興味がないが確かにこの風景は奇妙だ。なんでこんな形ができるのかという単純な疑問などどこ吹く風、厳然と奇岩は大海に対峙する。見残しに行くには千尋岬から歩く方法もあったが竜串のグラスボート観光船で行く。途中、海底のテーブルサンゴとシコロサンゴが見える船に乗れるからでもある。熱帯魚が悠然として泳いでいるがサンゴは、曇天の為かこんなもんかと言う程度であった。見残し海岸には小さな船着き場があってそこで降ろされ、海岸を自由に散策するという仕掛けだ。船は、適当な時間に迎えに来る。奇岩はきりがないので途中引き返したが、先には名のある変わった岩があったのだろう。観光地の船なのにお客は我々だけ。案外寂しい。ちなみに、此処は7年前の自然公園法の改正で海中公園から「海域公園」に代わっている。さていよいよ長いトンネルと峠をいくつもぬけて、一路、西の果てを目指す。そこに大堂海岸に続き、柏島があるから。
  • 柏島。大堂海岸
      あんなに憧れたのに、目が覚めたら柏島。右側に海があるはずがないのに、両岸に海が、此処はどこかと混乱するが後の祭り。長旅の疲れからついうっかり寝入ってしまった。この為にわざわざ来たのになんということをしてしまったのか今でも悔やまれる。陸続きの柏島には黒潮が当たる。本当に海が黒いのだ。あの驚きは今も忘れられない。小舟で少し沖に行けばそれがはっきりわかる。急に太平洋の真ん中にいるような気分になるから不思議だ。そんなところまで来てるのに、車の中から鯛の養殖場を眺めているだけとは。しかも行くまでの道が大堂海岸。日本を代表する人跡未踏の絶壁なのだ。残念を通り越して無念。空海ならず、見残しの島と絶壁となった。
  • 外泊
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      この地は先祖代々、整然と石垣を積み上げて現在に至っている。長い間の、季節風や、台風の強風から小さな集落の生活を守り続けてきた。この石垣の、狭い段々畑が家族を守り子を育ててきたに違いない。外泊は遠い。最近こそ観光で知られるようになっているが、昔はこれが生活の場として当然の風景だっただろう。ここ南予は「軍隊に入り米の飯が食える」と徴兵を喜んだという環境なのだ。その真ん中に外泊はある。漏れてくる黄色い光が夕暮れる家々を一層深く沈める。裏山は急峻で行き止まり。前は海。わずかな平地に階段状に石垣を造って居住地と畑。
      石垣の里は今美しき日本の歴史風土100選に選ばれて、農林大臣賞をえている。石垣を積んだ先祖たちは、そんなことよりも大切なメッセージを訴えているように思える。夕方小雨が降った。温かい風の中石垣が光っていた。それだけだった。
      (第3泊)民宿「石垣荘」0895-82-0421 8千円3部屋2食。
      愛媛県愛南町外泊303(現金)
      toro1a.jpg無愛想、でもとても親切。誠意ある対応(濡れた傘など黙っていても干してくれていた)。食事も設備もいい。ただ、民宿までの坂道はすべり止めの工夫がなされてはいるが、石段の集落らしく多少の我慢がいる。ここは、宇和島から日に何本もないバスで2時間を要する。一見の観光客が押し寄せるところではない。周囲は石垣に囲まれ集落はその中に隠れている。早朝散歩で、この石垣の村の補修と維持が村人の手で行われていて、その苦労を語る老人に出会う。「猪のやつが、餌を求めて石垣を崩す、その補修が大変だ。民宿と言っても数軒、リピーターはほとんどない」。すぐ下の魚港は裸電球のもと、吹く海風に石垣の村は静まり返っていた。
  • 5月31日(日)晴走行6時間程度 210Km
      外泊8時発――高茂岬――外泊――345号――37号――津島――34号――御荘――56号――南レク街道――37号線――水ケ浦鼻(段々畑)――宇和島(城)――宇和――25号――八幡浜――197号――伊方町――佐田岬――三崎港――佐田三崎先端燈台往復(駐車場から往復40分歩く)――20分(内浦。正野)金沢旅館(泊)。
  • 高茂岬
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      外泊から狭い何にもない海岸線の道を高茂岬に行く。ここは、豊後水道に突き出ている半島のその先であり100Mを超す断崖の岬は大海原を超えて「鷹が渡る」岬でもある。岬の芝生の広場には、明らかに建物の痕跡。第二次大戦のとき砲台もあり、呉海軍の出先として瀬戸内海への敵潜水艦の侵入を防ぐ任を果たしていたという。40人もの兵隊が常駐し、海中には、600Kの機雷を多数潜ませていた。
      と言っても前は茫々たる大洋。地の果ての岬に駐屯した兵隊たちがどんな日常を送ったのだろうか。毎日毎日、海を眺め、人も訪わぬこの地で、どんな平和な戦争をしていたのか知る由もない。終戦で故郷に帰った兵隊たちは、この岬の戦争をどのように語ったのか。荒れ狂う台風や、燦々とした青い海の事、九州の山々に沈む夕日の事か。
      望遠鏡で見ると岩礁にカラフルな服装の釣り人達が見える。兵どもの夢のあとはどこも悲しくさびしい。
  • 水ケ浦鼻(段々畑)遊子水荷浦(ゆすみずがうら)の段々畑
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      外泊から水ケ浦鼻への道は、海岸を苦労して通って初めて旅となる。外海でないことは、真珠の養殖がそこらじゅうの湾に出てくることでそれと知れる。途中、宇和海に大きく突き出てる「由良半島」の付け根を横切る。宿毛、大月などを経る。カーナビの示すコースは効率第一でこの旅の目的に合わないが、疲れもあり、トンネルに次ぐトンネルの道を素直に従う。リアス式海岸の夥しい養殖場を左手に見て5万の地図で4枚を北上してやっと目的地水ケ浦鼻に着く。 第一声は「なんだあれは」だった。擁壁の様だが少し違う。海を従えて空に屹立している明るい灰色の巨大な壁。近づくと石段の畑。まだ信じられない。こんな風景を想像できない。コロシアムの半円形をしている。緑は一切ない。 この地は水が貴重で、嫁が実家に帰ると水を桶で土産に持ってきたという処である。石段は江戸末期から作られたがそれまでは、この石段さえなく大雨のたびに畑が流されていた。厳しく長い飢餓との戦いがあった。其の後、家族総出で石を海から背負って運び積み上げて現在の形を創りだした。その重労働は筆舌に尽くし難い。畑の幅は1~2m。高さ1m。斜面の角度は40度。段数は50段。もっと多くこの半島全部に石段畑があったが、今は、日当たりがよく、ジャガイモが採れるところのみが残ったという。他は、眼下に見えるハマチやタイの養殖場に働きに出てやめてしまった。観光用に維持するだけでも夏の草取りなど現在ですら重労働を連想させる。
      耕して天に至るとは、風景ではない。そこに住む人たちの絶望に近い怨嗟の声である。
  • 宇和島城
      暑い。駐車場から城までのわずかな距離が暑い。しかし、一歩中に入ると苔むす樹林の名城である。伊達10万石の城下町宇和島。藤堂高虎築城後、伊達家によって修復、現在に至る。堀はすべて埋められたが、城山は国史跡に天守は重要文化財。石垣にも品格のある城である。ここも観光客はいなかった。
  • 佐多岬先端
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      佐多岬は怪獣の岬だ。豊後水道に消えるまで天に向かって這登る50Kmの細い尾根道が背になっている。小さな集落が途中に有るが三崎港を除けば、わざわざ海岸まで急な枝道を降りなければその存在はわからない。道がないとき、交通手段は全て海を使った名残だろう。地形が似ているため途中の三机辺りは真珠湾攻撃の訓練に使われた場所。先端の崖の大きな洞窟に海上の船を攻撃する大砲が置かれた跡がある。燈台守の家跡は門だけ残して雑草の中にあった。遥か行きかう船の向こうに九州の煙突が見える。此の先端までの道は鬱蒼とした椿の道。燈台から、強い海流に抗して僅かな岩礁に立つ杭を見ているとそのまま止まらない時の流れの様だ。道は、北が伊予灘、南が宇和海。それを分けて半島。付け根に全く異質に伊方原発がある。
      (第4泊)「金沢旅館」0894-56-0022予約済9千円3部屋2食。
      愛媛県伊方町正野33-2(現金)(津波注意宿泊)
      九州へ行くフエリーが出る三崎港ではない。そこから20分も先端に行かないとこの正野の旅館に行けない。食事前にビールは飲むな、「料理が食べられなくなるから」という何とも欲のない浮世離れした旅館。生きた大きな伊勢海老。鰹やアワビの刺身、サザエ、その他魚の刺身、50センチを超える関サバの焼物、煮物など本当に食べきれない。料理は文句なく最高。(マグロは出さない、「この辺で獲れないから」あんなものと淡々としている)珍しい暖柑(柑橘類)があったので送ってもらいたいと相談すると、知り合いにその場で電話し原価で売れと交渉してくれる。隣は風景に反逆した色の民宿の巨大ビル。夕方散歩して地元の老人(老人しかいない)と話すと皆がこの旅館のおかみをほめる。老人もおかみも、ここで生まれ育ち、どこにも出たことはないという。誠に仙人みたいな人達。実直で誠実、子供のころからの仲良し村。こんな人達が生き残っていたとは隠れた世界遺産である。ここはさすがにはるばるきた佐多岬、その先端だ。ただし、海抜3M。旅館に着くとすぐに、予想される津波20Mの避難路を点検。今日来た道を逆に行くしか方法がないらしい。懐中電灯を枕元に、荷物を整理して就寝する。それでもまたこの旅館には泊まってみたい。
  • 6月1日(月)晴、曇走行8時間程度 280Km,5万地図7枚。
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      佐田岬正野発――三崎――巨大な風力発電の公園――伊予長浜(赤い開閉橋)――肱川――大洲――臥龍荘――内子(内子座。等)――檮原町の高知側から困難な道――地芳峠――カルスト台地(霧)――五段高原――美川――212号――12号――国民宿舎、久万高原古岩屋荘(遍路の宿。一軒家)。
  • せと風の丘パーク
      北は、瀬戸内海、南は宇和海。展望の公園である。丁度、風車の工事中で、羽が地上に降りていたが巨大である。風車の数は年々増えているようだが、まだまだ少ないのだろう。公園なのに誰も姿はない。立派な施設が、原発との関係を物語っている。伊方町にも立ち寄ったが、役場も、学校も白亜のホテルの様だ。
      ここから原発は山を越えなければならないので引き返した。原発事故を前に、人類はいまだそのコントロール方法さえ知らず今も避難民は苦しんでいる。
      この町はこれだけのものを得るのに、なにを引き替えに差し出したのだろうか。
  • 臥龍山荘
      多くの中学生に遭遇する。田舎の素直な子供達特有な素直ないい顔をしている。 ここは、もともと大洲歴代藩主の遊賞地に、明治になって3000坪の庭園に10年を費やし貿易商河内虎二郎により再建されたもの。伊予の小京都と言われ、周囲の肱川と、神楽山を借景にしている建物である。特に不老庵の茶室には天然の槇の木を柱にし、自然を取り入れる姿は肱川からの眺めを含めて美しい、京都に負けじと、床に仙台松一枚板を使い天井を河面の光を反射させる構造などにして誇示している。
      肱川の河原は季節になると「芋煮」会場として近郷近在の人たちが一家でそろって夕暮れに集う。夏の夜は鵜飼も行われる。建物もいいが、大洲はなんといっても冬霧がいい。川面から立つ霧が帯状に瀬戸内海にまで流れるさまは自然界の雄大な音楽を奏でる。その雰囲気だけでもと、わざわざ、肱川の出口である伊予長浜に迂回し、肱川嵐の赤い開閉橋、長浜大橋を渡り肱川を遡り大洲を目指した。
  • 内子
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      町並み駐車場から、重要伝統的建造物群の道を散策。それにしても暑い。川越を大きくしたような街並み。きれいに整備されてはいるが、日陰もなく暑いことおびただしい。木蝋資料館上芳我邸に立ち寄る。随分観光化している印象。以前は、店先で老人が木蝋造りを実演して説明していたが、今は、価格説明だけ。木蝋は、ハゼの実から作るので、燃えても煙がすくなく、炎が揺るがず、明るい。しかも蜂に刺されても薬にさえなるなどと言っていたのだが。他に買うものとてないので昔買ったものが使わずに残っているのにまた買ってしまった。のんびりした名前の伊予銀行の信号で曲がるまでは、それなりの古さと当時の街並みを保存している。そこから先は、映画村。とおもえばいい。かなり疲れたころ内子座に至る。もとは、この木造の劇場は生糸や、木蝋で儲けた人たちが大正5年に建てた。農閑期の映画や、歌舞伎、文楽などでにぎわっていたがやがて産業の衰退に伴って老朽化もあり、取り壊しの運命にあった。これを町民の熱意により昭和60年、定員650の劇場として再出発。今では年間5万人が利用するまでになった。手押しの奈落や、すっぽん(役者が一人で花道の下から出てくる仕掛け)などの地下設備も見学。舞台で内子座のはんてんを羽織り記念写真。まるで修学旅行の高校生。まあ、いいか。ここから、屋根付き橋に行くのは少し時間がかかるために省略してしまったが、今にして思えば残念だった。
  • 四国カルスト
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      高知と、愛媛県境の尾根沿い25kmに及ぶ石灰岩と牧場の草原の高原。天狗森は標高1485mに及ぶ。
      内子から肱川を登り、愛媛側の大野台を経て山道でカルスト台地に行く予定だったが、林道入口の道の狭さに恐れをなしカーナビの命じるままに行ったのが間違いのもと。なんと愛媛県を通過し、高知県に至り雲上の村檮原を経てそこから地芳峠に至るコースだった。途中はともかく、最後の峠の登りは、一車線の道に趣味で思いっきりカーブを多く造ったとしか思えない。永野口番所跡から子牛城までは車に酔うのが正常。皆黙ってしまった。地芳峠に出たときは峠の風がこれほど甘く爽やかだったことはない。なにしろ檮原町作成のパンフレットにも主要道路はいわずもがな、「その他の道路」にも標示されていない道なのだ。峠は雲が出てきて、風景は一変し寒くさえある。姫鶴平(めずるだいら)で休憩。乳牛がのんびり草をはむ牧歌的なスイスの様な風景。石灰岩の大岩や奇岩が高原にごろごろしている。雲の流れが冷風の中でその風景を消したりまた作ったりする。山小屋の裏に高知県と愛媛県の境界線が引かれてる。風力発電の風車が回る丘が続く、この稜線を下るのはあの高知県側でなければどこでもいい。適当に五段城を経て美川を目指す。人煙もない道と、長い長いトンネルと急カーブが当然のように続くがそれでも登りの時を思えば夢のようだ。美川までくれば、今日の宿泊先は近い。疲れたろうから途中の岩屋寺は明日にしよう。早く風呂に入ってビールだ。それにしても、カルストの観光紹介には高知、檮原から地芳峠の登り道のひどさをまじめに触れていない。いきなり、カルストの美しい草原牧場ばかりを紹介する。でも、実際この道で訪れた人はわかるだろう。行くまでの困難極まる道程を。だから価値があり、いいのだが、事前の「決死」の覚悟が必要だ。地芳トンネルの写真だけを見れば誰でも東名高速並みの道を想像してしまう。それにしてもカーナビは普通の人が普通に信じるものだが。
      (第5泊)「古岩屋荘」0892-41-0431 3部屋6人。8500円
      愛媛県上浮穴郡久万高原町直瀬乙1636
      国民宿舎でどう見てもそれ以上ではないが、この深山にあると立派な宿泊場所に見える。夕暮れて宿に着くと安らぎを覚える。3部屋しかないトイレ付の部屋を私たちが独占。ここには、岩屋寺に来る遍路さんが宿泊している。食堂などで、観光客との違いはすぐに判る。言葉少なく、孤独で、謙虚な人達だ。正面には大きな岸壁が立ちはだかり、「岩屋荘」とはこの風景からの命名だろう。ともかく静かだ。夕暮れ付近を散歩するとテントで遍路をしている青年に出会う。40日も旅をしているという。その行動はかって自分のあこがれだった。話は人生観や、旅から求めるものなどにおよび、なんだか親近感がわき、資金カンパをする。自分にできなかったことを代わりにこの名も知らぬ青年が歩いてくれているのだ。翌朝テントはすでになかった。今頃、どこを歩いているのだろうか。
  • 6月2日((火)晴曇走行4時間程度 60Km
      古岩屋荘発8時――岩屋寺(往復2時間程度)――12号――33号――三坂峠(立派な長いトンネル)――砥部焼釜見学――33号――松山城――道後温泉本館――(泊)。
  • 岩屋寺
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      昨日通った道を3kmほど引き返して45番札所の真言宗の岩屋寺へ。寺は道路から見えないが、駐車場から近い。まさに岩の中にへばりついている。例によって境内に誰もいない。寺はいつも混んでるという鎌倉あたりの観光寺の常識は全く通じない。海抜700mの典型的な山岳霊場である。奇岩、奇峰、巨石が寺を囲み、いや、寺がその中にしがみついている。ここは、空海も訪れているし、一遍上人も修行している名刹。奥の洞窟を詣でるには懐中電灯が必要だ。階段は結構な段数がある。
  • 砥部焼
      砥部焼は、元来農家の実用的な焼き物で、重く、頑丈に出来ていて、絵付けもシンプルな一色である。厚手の白磁に薄い藍色の図案。それがどうしたことか近年有名になって、値段が上がり、実用として使いにくくなった。観光バスが何台も駐車できる大きなお土産屋を兼ねた「砥部焼伝統産業会館」で、制作工程を見学するが、当然面白いものではない。早朝の為かほとんどの機械は停まり、手作りをする従業員もまばら。なにしに来たと不機嫌そうに見えるのはひがみか。このようなところは興味が無ければ猫に小判だ。ここまで来ると周囲は都会。実際は少ないのだろうが、今までが今までだから車がやたらと多く見える。面倒な信号待ちすら懐かしい。
  • 松山城(松山市)
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      15万石の城下町。漱石の坊ちゃんの舞台。定年後に住みたいところの第一に挙げられる温暖な気候。町村合併で人口51万。空港もあり、文化面も充実して、ちょうどいい規模の街。のんびりした人情。みかんをはじめ豊かな果物、鮮魚。子規俳句の文芸、伊予絣、山頭火の眠る町。なんといっても天下の道後温泉、どれをとっても松山を悪く言う人はいない。でも、真夏の瀬戸の夕凪の暑さは気が狂いそうになる。松山は城で持つ。桜咲く「春嵐し」の日になれば、多くの市民がいまだに城に登り城主に恵まれた生活を報告するかの如くに、城の満開の花下でご馳走を食べて、日ごろの無事平穏を祈る土地柄である。もともと四国は商業は高松、行政は松山と区分されていた。
      松山は「いで湯と城と文学の街」である。松山城は1627年築城。松平家が居城。 最近復元が進み二の丸公園や、近くにあった競輪場などが移転され堀を囲む公園の整備などでかなり城として風格が出てきた。登りはロープウエーがあるが、下りは城の裏に出る石垣のコースが古城を満喫できる。天守からは遠く瀬戸内海を望め、振り向けば四国山脈が控える。旧制松山中学の敷地に古びて建つ建物は懐かしい勤務場所。自分たちの建物など古くていい。その分を国民の用に供してる姿を誇りに思う。町は大きなアーケードに覆われた大街道が中心。立派な大都市並みの近代的商店に混じり、「労研まんじゅう」が今も売られている。由来はすぐ忘れるが懐かしい。昔あったうどん屋も見つけた。商店街は外見ほど変わっていないようだ。
  • 道後温泉本館
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      国指定重要文化財である。3階席。1550円を奮発。「霊の湯」にも入れ、個室で浴衣も出て、温泉入浴の後には坊ちゃん団子と渋いお茶も出るし、皇室専用浴室の見学もできる。傷を負ったシラサギが、此の温泉に入りたちまち治癒したのを見た人たちがこの温泉にはるようになったという源泉の由来がある。いまだにシラサギをてっぺんに頂いた楼閣では朝6時、昼12時、夕方6時に大きな太鼓が打ち鳴らされている。坊ちゃんの間は3階の隅にあって漱石が通った頃の面影を残している。市営で市の比較的高齢な職員の方々が自信たっぷり運営しているのもほほえましい。温泉街のお土産屋街をのぞき見。タルトは少し高いが「六時屋」が旨い。と思う。
      (第6泊)「ホテル メルパルク松山」089-945-6511
      ツイン9300円(一人朝夕食付)3部屋6人。
      道後温泉に歩いて5分と意外に近い。高台の静かな環境にある。まともなホテルと同じレベルだが安いところは違う。部屋は禁煙なのに少しタバコくさいがゆったりしているのがいい。従業員はみんな親切だ。道後温泉本館に行くための、入浴用品を綺麗な手提げかごに入れて渡してくれた。小さなことだが心温かいサービスだ。
  • 6月3日(水)最終日 乗船時間4時間(フエリー利用)30Km
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      メルパルク発8時30分――高浜港切符購入(レンタカーは駐車場)――高浜港発9時25分――釣島9時50分――神浦(中島)10時43分――津和地11時03分――元怒和11時14分――(中島)西中港着11時52分(下船)
      中島、西中港バス停発11時58分――バス大浦着(中島港)12時21分昼食 ――大浦港発乗船14時10分――野忽那島14時31分――睦月島14時48分――高浜着15時20分(船が着く最終の港を終点という。なんと言うのか興味を持っていたが列車と同じ表現だった)――183号――大山寺(遍路寺)――松山空港着17時――空港レンタカー返し18時
      中島(汽船) 089-997-1221 (バス)089-997-1221
      松山沖の島々(忽那諸島周遊。中島汽船)
      (西線)高浜港発――釣島港――神浦港――二神港――津和地港――元怒和港――上怒和港――西中浜港(中島)着――バスで中島横断――大浦港着
      (東線)大浦港発――野忽那港――睦月――高浜港着
  • 中島汽船
      生活航路フエリーによる瀬戸内海観光についてはあまり知られていない。そもそも中島汽船が町営汽船だった名残で商売気はない。パンフレットらしきものも白黒の紙一枚に手書きのようなもの。明治の和船による渡船以来、いろいろと紆余屈折を経て今の会社組織になったのが平成16年。松山市の離島「忽那諸島」と松山を結ぶ航路の他中島本島内のバスを運行している会社だ。旅客フエリーは高浜港から東線、西線がでている。600トン級のフエリーである。生活の為だけのフエリーだから景色は期待できないとみるのは認識不足。此のあたりの瀬戸内海は大小の島々がことのほか美しく一日でゆっくり島めぐりができる、客船は豪華ではないが風景は地中海クルーズにも負けないはずだ。それが料金も3000円前後と格安である。このコースが観光業者に知れ渡れば爆発的に人気が出るだろう。途中下船すれば、思わぬ発見や、離島生活を垣間見ることさえできる。中島の西中港のバス停留場がわかり難い。港にあると思いきや離れている。港にも来るが、そこにバス停がない。島民はみんなわかるのだろう。海沿いをのんびり走る。「二十四の瞳」のバスの様だ。
      汽笛を鳴らし近づいてくる船を待つのは「坊ちゃん」の様だ。舟は案外あっけなく接岸する。当日、船が出るころから曇り空から時々小雨がぱらつき、海面に低い雲が流れ、島々を幽玄の世界に浮き上がらせている。ゆっくりした船の動きが心地よい。こうしてデッキにいると自分の船にいる気分だ。船室には、私達の他数名。それも終点までには誰もいなかった。これから回る島々では釣れないときに、島を散歩するのが楽しかった。人家とてない草生す荒地で戦艦陸奥の戦没者が流れ着いたという慰霊碑に出会ったこともある。
      家々には平凡で、ゆっくりした生活がある。美しい風景に出くわす。いい人たちに出あう。どの島にも異なる深い歴史と生活がある。島の人口は実際は半分程度だろう。島で成功すると、松山に不動産を持ち、やがて移住してしまうという。若者は、学校を出れば初めから島に住まない。過疎化、高齢化は目を覆うばかりだ。こんなにいい島なのに。以下は中島を除いてはフエリーで寄港時に港から見た島の風景だが。
  • 釣島
      人口80人。面積0.36平方Km。周囲3,9Km。標高152mで小さい島の割には堂々としている。北側に集落があるのみ。ほとんどみかん畑。周辺は瀬戸内海を航行する船が多い。ここの蛸は有名。昔、鶴がたくさん来たので鶴島と言われ変化して釣島に。愛媛県で最も古い明治6年に造られた燈台があり現在も無人で使われ、官舎跡は文化財として保存されている。食堂も、泊まるところもない。一台の自販機が港にあるのみ。乗り物は島民の作業用軽トラックがあったかどうか。
  • 中島(神浦港、西中港、大浦港)
      忽那諸島最大の島。しかし人口は最盛時1万5000人から3000人に激減。有名な中島蜜柑の商標もなくなり、みかん畑も最近は台風の塩害で衰退。しかし忽那諸島最大の島であることは変わりなく、松山からのフエリー東回りの終点であり、島内に路線バスが走り、高校の分校も、病院も、銀行すらある。小学校は3校が廃校になり現在は1校のみ。商店街もあるのかないのか疑う状態で、やっと見つけた食堂も閉店状態。渋る店主を頼み込んで昼食にありつける。1000円の海鮮どんぶりは、三崎の旅館の後だけにこんなものか程度。空き家が多い。島の中でも大浦が最大集落。西中港に至っては船を降りても食堂など何もないと切符売り場で聞いた通りだった。宿泊は数件あるようだ。夏は海水浴客で賑やかになる。最終のフエリーが出ていく夕方は海水浴場にいても急激にさびしくなり島流しになったような錯覚になる。400年にわたる忽那氏の城址「泰ノ山」城址289Mがある。
  • 二神島
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      人口200.面積2平方Km。周囲10Km。南北に長く、南は崖。
      小中学校現在はなし。民宿1軒。商店2軒。ただし島民用。古来の日本の風習を色濃く残している。もともと600年もの間、二神氏の支配地であり600年間の一族代々の墓石がある。産業はみかんと蛸つぼ漁。かってはこの島で貧困になると、子供たちを残して5年程度隣の「由利島」に出稼ぎ農業に出かけた。そこは、共働集落の賦役も、付き合いもなくただ働き努力すれば再び二神島に再生して帰ることも可能であった。常時20世帯が由利島に行っていたという事から、二神島の貧困は容易に推定できる。由利島のような島を民俗学では困窮島と言うが、瀬戸内海には多い。日本海の舳倉島も同じようなものかもしれない。先人が考え出した救貧施策であり山村の姥捨てと違って余裕と温かみがあるように思える。なんといっても二神島は、港のビャクシン自生地だ。県の天然記念物になっているが真っ青な波のない海に映える緑濃い森閑とした樹林は二神の名と共に神秘的である。かって民宿に学校の先生が寄宿していた。小さな学校を過ぎて砂道を行くと、島の裏側に出る。僅かばかりの炎天の畑にスイカが転がっていた。強い日光と波の音だけ。黒い水着の小学校生が和船から声をかけている先生と一団となって入道雲のもと楽しそうに泳いでいた。もう、先生も生徒もいない、小学校もない。
  • 津和地島
      人口500.面積2.86平方Km。周囲12Km。みかん、ヒラメなどの養殖漁業、蛸。玉ねぎ。猪が多い島である。多島海域で急流が多い為、豊かな漁場が近い 愛媛県と、広島、山口県の境にある。しかし此の島に行くには、松山から行くしか船はない。遠い島である。参勤交代や、朝鮮使節使が風待ちをした。帆船時代にこの港は帆を上げたままで入港出来る良港だったことによる。松山藩が「公儀接待所」(お茶や)を置き接待をした跡が碑になって残っている。水がすくなく貯水を兼ねたトンネルがある。島民の50日分しかなく水は今も貴重。かっては大いに栄えた島である。
      船が着く前から望遠鏡で見ていると島中とも思われるおばあさんたちが、買い物車を引き港の広場に次々に集まり立ち話をしている。今日はお祭りでもあるのかと思っていた。乗っていたフエリーが着くとトラックが2台下船し広場に着くと、すぐに荷台を開けて即席のマーケットを作った。おばあさんたちがそこに集まり買い物をしている。声は聞こえないがなんだか楽しそうだ。買い物もままならないだろうこの島では、めったにない大切な娯楽に違いない。立ち寄った船はトラックとおばあさんたちを残して島を離れる。私がここで見ていることなど想像もしないだろう。何物にも邪魔されない平穏な島の生活が悠然としかも厳然としてある。
  • 怒和島(ぬわ)
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      人口500.面積4.8平方Km。周囲13.5Km・みかん、ヒラメ、アワビの養殖。宿は夏のみ一軒だけ。釣りのメッカである。
      かって北側の比較的平坦な宮之浦に集落があったが、耕作地を拡大するため、現在の南側に移住し北側を畑にした。平成12年、発掘調査があり奈良時代からの遺構がその北側から発見されている。
      島の東側丸子岬に伝説がある。かって大名の姫が乗った船が大みそかの晩にここで遭難して亡くなった。その霊がいまだに出るという。この近辺の潮流が早く危険なための戒めとして語り継がれているのだろう。パンフレットには元気ある島となっていたがそうも見えなかった。元怒和から上怒和への途中の右舷に鬼が島みたいなトンガリ島が「クダコ」島。城塞島であった。海賊の宝がきっと埋められているに違いない風情。
  • 野忽那島(のぐつな)
      島の面積に対して大きな湾を抱える小さな島。人口170.面積0.9平方Km・周囲6Km。
      産業はみかんと、魚が僅か。海抜は最高点で花魁山102m。71mの皿山頂上に展望台があり、景色は雄大。ここにも戦争の時の監視所跡がある。民宿はないが予約すれば集会場に泊めてくれるらしい(089-998-0757)夏場は民宿になるところもあるようだ。商店はあいたりしまったり。島民専用で品数が少ない為部外者の購入は控えよう。自動販売機1台。過疎化。高齢化の典型のような島。あまり書くことがないのが貴重で、本物の離島のいいところだ。江戸から明治にかけては、瀬戸内海を航行する船に食糧、蒔きなどを売ることで生計を立てていた。島の東は白砂の海岸。
  • 睦月島(むつき)
      人口350.周囲13Km。面積3.8平方Km。最高標高218m。
      江戸後期から明治にかけ当時ほとんどの人が着ていた絣を売り歩きその船50艘を超えたという。伊代絣の行商でかなりの金持ちが出て、家並みは、島には珍しく長屋門造りの大きな黒板の古民家がそろっている。双耳峰の山狩り、その間を睦月スカイラインが15Kの渡り走る。景色は抜群。梅の小島が付属している。歩いて渡れる。中世の城跡。難攻不落だろう。宿はないが、予約すれば公民館に泊めてくれる。(089-998-0211)1500円。炊事OK・店1軒だが、島民のものしかないので、やたら買わないこと。食堂は予約すれば開く店が1軒。自動販売機1台。山頂付近はハイキングコース。島四国88か所めぐりができる。ここも、書くことはない。古き良き時代が眠ったまま残る貴重な憧れの島。
  • 大山寺
      思わず身を正す名刹である。540年ごろ真野長者によって御堂は一夜で作られたという。四国霊場52番の寺。駐車場をでて、鬱蒼たる森の荘厳さに打たれる。本堂は見事な天平瓦の屋根。堂々たる国宝。森閑として格式に満ちている。真言密教では最大規模を誇る。本堂には、歴代代天皇が勅納した7体の十一面観音がある。忽那諸島を周遊して時間があったので、立ち寄ったがそんな立ち寄り方では罰が当たる。もちろん、空海がこの寺に来てから真言宗に改宗。松山から30分で来られるのにこの寺は四国を代表する名刹に違いない。
  • 帰路
      松山空港発JAL440便19時20分――羽田20時45分着 二俣川バス着21時50分(解散)行き帰り満席。不思議だ。
      昼食と、一部夕食、食事時アルコール各自自由。部屋3部屋(2人部屋)確保 原則出発は8時。宿着17時以前に着。(夜間運転はしない)。
      レンタカー8人乗りを6人で利用。安全運転の為、午前と午後運転交代。座席は高橋氏作成のわかり易い座席表で全員が毎日交代で座る(例外なしだが、夫婦 間に限り交代可能とした)。
  • 持ち物
      雨具(雨天行動)。医薬品。衣類(行動しやすいもの)。(履きなれた靴)。
      洗面具。携帯(充電器)。カメラ、望遠鏡等、非常用品(懐中電灯等)健康保険 証コピー。荷物は各自リック+二人に1個の小トランク、荷物は機内持ち込み とする。
  • 使用文献と準備地図
      高知県、愛媛県、檮原、土佐清水、土佐中村、西予、伊方、松山などの観光協会の資料多数。朝日科学(日本西部)。
      ツーリングマップル中国四国(昭文社)ライダー用の詳細情報地図;1/25000(国土地理院)「大歩危」「京上」、「剣山」、「石鎚山」、「瓶が森」、
      1/50000(国土地理院)「窪川」、「大用」「田野の」、「土佐中村」、「土佐清水」、「柏島」、「伊予鹿島」、「岩松」「伊予高山」、「魚神山」、「宿毛」、「宇和島」、「伊予三崎」、「久万」、「檮原」、「卯之町」、「八幡浜」、「大洲」、「三津浜」、「室津」、「久賀」
  • 費用
      総費用 概算13万円(一人)適宜会計に現金支払い。
      航空券;2万7723円(一人)(羽田~高松。松山~羽田)。16万6340円÷6人=27723円(一人)。(変更不可。キャンセル料100%)。
      レンタカー;2万3666円(一人)。111996円÷6人=18666円(一人)。
      ガソリン代;5千円(一人)セレナ2000。
      宿泊;6泊で5万2千円 (一人)。
      その他;3万円。
      羽田空港バス;往復約2000円。
      昼食7回、夕食1回等;(1万5千円程度か)。
      四万十川船;(2千円)。かずら橋;(5百)。見残遊覧船;(3千円)。
      道後温泉;(2千円)。瀬戸内海島巡り;(3千円)。
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