一日目(12/25)
(記録:孝儀)JR町田駅先頭車内で2ルートより乗車した全員(7名)が揃い、普通電車(各駅停車)は日が燦々と輝く中高尾山塊、相模湖、南アルプス、入笠山、八ヶ岳などを右に、左に見ながら予定通りJR上諏訪駅に到着。
駅から徒歩5分にある「諏訪シティホテル」にて身軽なウォーキング姿で早速タクシーにて諏訪湖畔の「SUWAガラスの里」に向かった。レストランで真っ青な空と諏訪湖を見渡しながらランチを堪能した。食後の運動を兼ね約2km先の「原田泰治美術館(諏訪市営)」まで湖畔遊歩道(さざなみロード)をお喋りしながら歩く。諏訪市生まれの原田泰治は我々と同一世代?作品を見ているうちに懐かしい故郷、少年時代の街風景などが次々と思い浮かび心が癒された。原田絵画のキルト作品には唯々その技術とリアリティーに驚かされた。
「諏訪の浮島」と呼ばれる高島城へタクシーに乗る。薄氷の堀に架かる冠木橋を渡り冠木門より高島城天守閣へ。雲一つない青空、寒風の中、諏訪湖、南アルプス・・・見渡しながら震えもした。高島藩主諏訪氏の家紋は梶葉とのこと。善さんが「梶の木の葉は?」、誰も知らないのでお城の受付で聞いた公園内にある唯一の梶の木を見たが落葉し未だ不明、残念。高島城より片倉館は、三貴也さんの新兵器"ウォークナビ"の案内により町中をぶらぶら街並みと小物屋等を見ながら歩く。見学待ち合わせ時間の予定より早く片倉館前の池に到着。暫くすると片倉館の人が我々を見つけ「本日は館長がご案内いたします。暫くお待ちください。」5分後、杖をヨロヨロさせながら正装した館長がいつ転んでも不思議ではない歩きで登場。私は「大丈夫かな?」と心配していたが、これは演技でお笑い志願の好青年?{一安心}。
片倉館は昭和3年に竣工した地元住民への社交と福祉の場として建てられ、現在は「国重要文化財」に指定されている。館内案内は詳細で興味深く、建築技術は一見に値する。また片倉家は絹糸で築いた大財閥一族であり、多方面にわたり貢献しており、靖国神社の狛犬は片倉家寄進であり、その原型を玄関で見た。クイズもある館内案内を受け、いよいよ国重要文化財「浴場棟」へ移り大理石の「千人風呂」へ。この浴場には大理石像、ステンドグラス等の装飾があり、深さ1.1mお風呂の底は那智石が敷かれ、足つぼマッサージも可能か?入浴後館長さんより2階のテラスに案内され、諏訪湖の雄大なクリスマスイルミネーションに感激した。浴場棟を出た帰り道、諏訪湖のイルミネーションは湖畔自動車道に阻まれ見えなかった。きっと夏の「諏訪湖花火大会」は最高のビユースポットと思われる。(情報;花火大会は募集人員350人の予約とのこと。予約は早めに年明けにでも。)
再び、ナビの助けで「諏訪シティホテル」へ。夕食は予約していたホテル1階の食事処の個室で本日の出来事と世間話を肴に好きな物を食べながら話は続く。更にお喋りはミーティングとしてホテルで再開し10時頃散会した。
二日目(12/26)
(記録:三貴也)松本駅から徒歩で松本城へ向かい10時10分到着。晴天のもと散策後、天守内階段はどこも55度から60度と急こう配で、大変な思いをしながら6階まで見学した。 松本城は戦国時代の永正年間(1504-1520年)に信濃守護家小笠原氏が支城の一つとして深志城が築城され、甲斐の武田氏の侵攻を受け小笠原氏は没落。武田氏滅亡後の天正10年(1582年)、徳川家康の配下になった小笠原貞慶が回復し、松本城に改名した。明治維新後、明治5年(1872年)に天守が競売にかけられ、解体の危機が訪れるが、市川量造ら地元の有力者に買い戻され難を逃れる。なお、現在文化財保護法による国宝や重要文化財の天守は、わずか十二城にすぎない。国宝は松本城・彦根城・犬山城・姫路城の四城。重要文化財は弘前城・丸岡城・松江城・備中松山城・丸亀城・松山城・宇和島城・高知城の八城と説明されている。
天守1階は、矢狭間、鉄砲狭間、石落といった石垣を登ってくる敵と対峙した。2階は鉄砲蔵。3階は作戦部屋。4階は城主がいる「御座の間」。5階は重臣たちの作戦会議場でした。6階は周りの様子を見て戦況を判断していた所とのことです。各階には、各種武具、懇願書等が数多く展示されている。 11時30分松本城を後にし、熱々のタイ焼きをほおばり、珍しいしめ縄等を見ながら松本駅までの散策を楽しんだ。途中「三代澤酒店」に立ち寄り「どぶろく」、「酒粕」等を購入。店主推薦の「吉邦」そば店で「鴨南ばんそば」を堪能する。 帰路、松本駅14時26分発に乗車、ワイワイと雑談しながら、八王子19時発の横浜線に乗車、最寄駅で三々五々解散する。
(余談);小笠原忠正が徳川家康の命を受け、探索しているうちに小笠原諸島を発見して、小笠原の名前がついた。
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