しょうゆの文化と歴史(野田に行く人必読!)

user-pic
0

 (担当幹事 きみ子)

 野田醤油工場見学の前に目を通してください。

しょうゆのルーツは醤(じゃん)

 アジア各地では、醤(ひしお)といわれる調味料が、古来から使われてきました。そのころの食物の保存法と言えば、塩漬けにすることでした。食物を塩蔵すると、酵素や微生物の影響で発酵が進み、濃厚なうまみ成分を持つ液汁が染み出してきます。これが醤(じゃん)です。

 醤油の起源は、一般には鎌倉時代の僧、覚心が宋から伝えたとされる径山寺味噌(きんざんじみそ)と言われています。これは中国で醤が味噌へと発展したもので、日本の溜まり醤油の始まりとされています。

醤の文化が日本に伝来した日

 塩漬けという方法から自然発生的に世界のあちこちで、醤の文化は生まれてきました。日本で「醤」の名が登場する最も古いものは、大宝元年(701年)に藤原不比等らによって制定された「大宝律令」に、租税として米の代わりに醤を貢納させたと言う記述があります。

 その後、奈良時代の木簡には「醤」の文字が盛んにでてきます。このことから、一般大衆にも醤はかなり普及していたものと思われます。

溜まり醤油から発展した醤油

 覚心上人が、自分の住職として勤める和歌山県の寺で、人々に中国の径山寺で学んだおいしい醤の作り方を教えて回りました。これは大豆に小麦と塩を加え、季節野菜を漬け込んで米麹で発酵させた保存食です。俗に「径山寺(きんざんじ)味噌」と呼ばれるものです。この味噌を長い間使っていると出てくる上澄みの液が溜まりで、いまの醤油の元祖と言われています。

 おいしい醤(味噌)の上澄みを捨ててしまうのはもったいないと、野菜や魚などの煮付けの味付けに使ったのが最初のようです。

 やがて天正年間(1580年ごろ)に、湯浅の「玉井醤」が味噌醤油業を始め、正保年間(1644年)に湯浅の浜口儀兵衛が、房州の銚子にわたって醤油の醸造を開始するに至りました。これにより日本の醤油の歴史は、本格的に幕開けを迎えるのです。

野田・銚子の醤油の歴史

 野田・銚子というと、醤油、特に濃い口醤油の生産地として有名です。この醤油の醸造技術は、黒潮に乗って進出してきた関西漁民と一緒に関東に入ってきたのです。天正18年(1590年)に、徳川家康が関東に来ると安房や上総、下総への出稼ぎ漁民が多くなりました。特に調子には、浜口儀兵衛のように紀州の漁民が移住し港を作りました。彼らは、木綿栽培の肥料となるいわしを取るために黒潮に乗って新しい漁場を求めたのです。その後、銚子は最高級の肥料の生産地として有名になり、肥料生産でもうけた資金をもとに発展したのが、醤油醸造でした。

 江戸初期の醤油は「溜まり醤油」でしたが、元禄から享保(1688?1736年)にかけて江戸の人口が増え、江戸風の文化が栄えてくると江戸の人々の嗜好に合うように努力と工夫が繰り返されます。その結果、「径山寺みそ」のように関西から来る「下り醤油」に対抗して、大豆と小麦を併用する現在の濃い口醤油が作られるようになりました。

 醤油醸造の発展には、江戸時代最も発展した利根川の水運が不可欠でした。原料を運び入れ、出来上がった醤油を運び出すのも河川水運を使いました。こうして、銚子・野田は濃い口醤油産業地帯の中心地になっていったのです。

(鈴木憲一著「至宝の調味料 醤油」より)

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://kenhai2100.com/cp-bin/mt/mt-tb.cgi/365

コメントする

カウンタ

このブログ記事について

このページは、akirafが2009年2月17日 18:25に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「シタンゴ山(758m)から高松山(801m)へ冬枯れの山道を歩く(一般向き)(2009.3.5実施済み)」です。

次のブログ記事は「紅葉台から本栖湖―割石峠を越える(東海道自然歩道を歩く)(2009.3.23-24実施済み)」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。