No.195 海老名の史跡散歩と温泉(2007.11.15)

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Ebina.jpg(記録担当 勝巳)

 珍しく近郊の軽いハイキングということもあってか参加者は12名。晴天の小春日和。何よりもこのあたりからは富士山の姿が大きい。8時スタート。ゾロゾロと通勤客を尻目に海老名の町を中央公園の模造の国分寺七重の塔下でISからの最初の挨拶と説明が始まる。もとより歴史に詳しいだけでなく長年の史跡説明のボランテアで鍛えた的確な解説が一同をうならせる。

 ここ海老名市は史跡の宝庫である。これでもか、これでもかと史跡が押し寄せる。そのことはこの段階では知るよしもなかったが。

 国分寺は歩いて15分程度の小高い丘にあった。いわゆる我々が言う国分寺ではないが、もともと相模国国分寺の法灯を継ぐ名刹である。本尊の薬師如来は年に一度10月12日のみ開帳されるが、重要文化財の銅鐘はやけに新しい鉄筋の建物に鎮座している。なかば欠けた美しい小さな石像がある。これこそ「尼の泣き水」というこの地方の有名な悲話を語っている。その昔800年ごろのことだろう、国分寺のきらびやかな塔が建立され、その近くには国分尼寺があった。そこの尼僧と地元の漁師の若者との悲恋物語である。あまりに輝く塔のため魚が寄り付かず漁が出来ないので若い漁師がこの地を去っていくことを知った尼僧は、その別れの悲しみに耐えかねて塔を焼き払ってしまった。もちろん当時のことだから極刑に処せられた。このことを知った村人は、悲恋を哀れみ墓を立てあつくその霊を慰めたところ、そこからこんこんと泉が湧き出でた。これが「尼の泣き水」である。しかしISさんはこの説に必ずしも同調してはいない。すなわち、国分寺はそもそも人々の苦しみや悩みを解決するためのものなのにそれが漁師の生活を奪ってしまった。そんなものは本当の救いの姿ではない。だからそれを燃やして、漁師が再び漁ができることのほうが本来の仏の道であるという、放火の確信犯説であり説得力がある。

 ひさごとは瓢箪のことを言う。時代劇に出てくる「ひさご」はたいてい飲み屋だがここではひさご塚という300年―400年頃の古墳である。かなり大きい。前方後円墳の典型的な立派な古墳だがもとより誰のものかは分からない。本人もせっかくこんなに大きなものをこしらえたのに今や誰も、どなたのものか、どんな生活をした人か、名前はなんと言うのか、どんな家族がいたのか、何を成し遂げた人かなど一切誰も知らない。立派な石柱に刻んだ誇らしげな字句も朽ち果てて跡形も残さない。古墳にたつといつも思う。こんなむなしいものを作らされた多くの人たちの奴隷のような生活を。立派な公園であるという一事のみが今もその存在を誇っているが。

 いよいよ本日のメインイベント相模の国の国分寺跡である。流石に広々としている。一寸した野球場である。750年ごろの建立だとされ、当時は南大門、中門、七重の塔、金堂、講堂、僧房などの伽藍が立ち並ぶ一大建築群だった。富士や丹沢の山々、箱根や伊豆の山すら望見できる高台に、ごう然と平地を見下して金や赤に鮮やかに彩られ光を放ち、建並ぶ国分寺に恐れを抱き、その奥に鎮座する天皇の権威にひれ伏さない住民はいなかったろう。そこには眼もくらむほどの高度な教育を得た官僧20人が居住し、それに従するものは何倍もいたことだろう。何しろ一般の人たちは、土間と粗末な草葺の家にいて、雨や、寒さに、容赦ない過酷な税と重労働に泣き、隷属され、明かりもない夜、粗末な布を身にまとい、不安定な明日も見えない生活と治安の悪さを嘆き、恒常的な飢餓に苦しむ生活であったと思う。それでも家族を養い、懸命に生きていたはずである。そんなときに、この建造物だ。格差なんていうものをはるかに越えている、恐怖すら伴う異民族の支配形態のそれである。決して住民の喜びの歌はここからは聞こえてこない。礎石一つ運ぶのも、柱一本立てるのも、基礎の測量をするのも、瓦を焼き葺くのも、高所に木材を組み立てるのも、朱や金の色彩を出すのも、長期にわたる建設事業の運営を図るのも、道を作り、運河を掘り、物を運び、膨大な数の人足を集め管理し、効率よく確実にどんなときにも税を取り立て、天文を測量し、今とは比べ物にならない厳格な忌み事項を潜り抜けこれを成し遂げるのは確かに現地の一般の民ではない。

 全国に68もの国分寺、国分尼寺を短期間に建立するのが天皇の詔としても、その実行の裏づけは、ずば抜けた技術力をもった少数の人間の専権事項だったはずだ。歴史はいつの時代も世界のどこでも、少数の指導者と、それに隷属する大衆とから成り立っている。古代の世界から変わることない現実をこの史跡が語っている。などと相模の秋の空のもと勝手な空想を楽しんでいる。

 ちょうど市の職員が史跡の周辺の砂利を剥ぎ取っていた。悪戯して石を近所の家にぶつけるものがいるからだと笑いながら言うのを聞き、穏やかでいい時代にいるのだという現実に瞬間で引き戻された。

 国分尼寺は大安寺式の直線構造で国指定の史跡だがなんだか史跡の規模が国分寺に比べて狭い。それにしても男女両方の寺を全国に立てるとした聖武天皇は偉いと思ったら晋さんいわく、「奥さんの何がしがとても女傑で字など男のような字できっと奥さんが男も建てるなら女も建てろと天皇に談じ込んだに違いない」という。微笑みながらこれも納得。天皇も大変なんだ。

 廃寺の清水寺の横を抜け急な石の階段を上りきるとそこに龍峰寺は禅寺らしく威厳をもって緊張感に満ちて建っていた。屋根のてっぺん附近にそれぞれ異なる家紋が3個ついていて三貴也さんがしきりに不思議がるので寺の関係者と思しきおばさんに聞いたが「そういえばそうですね」といささか妙な質問をする人だと顔を見られた。

 千手観音立像など文化財が多い寺とのこと。手の数が何本かは意味のあることらしい。 稜線の上を歩く20分間は、はるかな町並みを下に富士山も大山や丹沢も見え隠れする。住宅地の真ん中にこんもりした森になっている秋葉山古墳群は3世紀から4世紀にわたり逐次建設されたために、それぞれ形に特徴がある。前方後円墳と意味無くおぼえていたが、この名前をつけたのは江戸の国学者蒲生君平だそうである。国の指定遺跡として管理された立派な古墳であるが、言うまでも無く誰のものとわからない。かなり発掘や、調査が行われ土器も発掘されているようだ。古墳群の入り口には中心荘という日当たりのいい立派な老人ホームがある。かって、ここには戦災孤児を収容した学校が建っていて名残のプールの跡や、校庭とおぼしき広場が草生して残っていた。古代の権力者の古墳を孤児の収容施設にしたのも何かの縁かもしれない。

 30分程度歩いたところにきれいな清水が流れていた。それを越えるとかしわ台の駅は近い。後は、ここち湯での昼食と温泉と、ビールだ。ゆっくりして3時過ぎに駅で解散。

 以上の記録は全て晋さんが作成し、現地で解説してくれたものの一部だ。このほかに実に多くの史跡があり、最後などは神中線の機関車と客車の実物までも含まれていた。行く先々のコミニテーセンターのトイレの借用や、寺院への挨拶なども事前手配がなされて準備や、手配が大変なことだったろうに謙虚なISさんはそんなことをおくびにもださない。

 ここに記録できなかったが実際には解説のあった事項を付記して感謝の念にかえたい。

 国分寺建立の目的と尼寺の関係。海老名を通る鎌倉や、大山古道の状況。古代官道、石橋供養等、石橋施工の勧進帳の複製、それを出した当時の庄屋さんの家がいまだに酒屋や葬儀場をしていること、目久尻川が河童伝説で悪さをした河童の目を穿り出したとされているのは実は、悪さをした河童とは氾濫する川であり、目久尻とは川の両岸を改修工事をしたことを意味しているという話や、念仏坂、常泉寺、かいな坂、落ち伸びて断首された護王姫のこと、大化の改新による条里制の田畑に引く用水のために掘った逆川跡、船着場跡、震度5で崩壊する危険のために閉鎖されている海老名市温故館、旧市役所を転売した余剰利益で9箇所のコミセンを作ったうちの一つである立派な鉄筋の今泉コミセンの出来た由来、相模湾がこの地まで入り込みそのときの船着場の舫い木が570年の大けや木になって今に残っていること、当時は附近の住民の生活用水であった浅井の泉、関所で40文取ったからついた四十坂の由来、そのほか実に多くの解説があったのに、聞くほうの能力をオーバーしてしまいこの程度しか歩留まりがない。ISさんはオプションの素人質問を予期し明快な回答をするためあらかじめ図面まで準備して解説してくれた周到さに敬服した。

 それにしてもこんなに近くに弥生や、奈良時代の歴史が豊富にあることを知らなかったことを今更のように恥じたが、今日の秋空はすがすがしかった。

  • 日時:2007.11.15
  • 参加者
    三貴也、孝儀、多摩江、晋、勝巳、才美、善右衛門、恵美子、伊久枝、文子、邦子、幸子、以上計12名

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このページは、akirafが2007年11月25日 08:50に書いたブログ記事です。

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